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淡雪記・秋思(後)





浦原は琥珀色の瞳を細め、そこに宿る鋭い光は隠さず、声だけ努めて明るく言った。
「おや、これは随分早いお帰りで」
ルキアを抱く腕に力を込めたまま、視線だけを背後に回す。薄く開けられた障子を背に、市丸ギンが立っていた。
心臓のちょうど真裏に当てた脇差を、ぐい、と押し付けられる。
「旅に出た、って噂でしたが」
ふん、とギンが鼻で笑う気配があった。
「行きは船、帰りは馬宿の馬を飛ばせば、4日あれば十分や」
「なるほど」
「さっさと、その汚い手ぇ離し」
「随分な言い方っスねぇ。アタシなりの看病なんスけど」
「江戸モンは冗談も下手やな」
浦原はおどけたように肩をすくめると、そろりとルキアの体を布団へ戻した。




「…貴方が、どういうつもりか知りませんがね」
ルキアに布団を被せながら、浦原は独り言のように呟く。
「いくら善行を重ねたって、貴方の殺した人たちが生き返るわけじゃあない」
枕元の桶から手ぬぐいを取り出し、硬く絞ると、ルキアの額にそっと乗せる。
「そもそも狐火の善行は、貴方のものじゃない。朽木さんのものです」



背を向けられていながら、ギンは浦原に手を出すことができなかった。
背中から心臓を刺すには、それなりの力と僅かな時間が要る。おそらく、ギンの脇差が浦原の心臓に達する間に、この男は逃げるだろう。平然と動いて見せながら、身のこなしに隙がないのだ。
ルキアが血で汚れる、と避けてしまったが、早々に首を掻っ切ってしまうべきだった、とギンは後悔した。



「自分の尻拭いを、朽木さんにさせるつもりっスか?」
ゆったりとした動作で、浦原がギンへ首を回す。その両目が、ぎらりと光る。
「朽木さんが、それに満足しているとでも?」



―来る。



と思ったときには既に、ギンの喉元に浦原の短刀が突きつけられていた。




「自惚れるなよ」




先程までとはまるで違う、地を這うような低い声が響く。
色素の薄い瞳には、暗い光があった。命の在りかを確かに狙い定めた刃、その切っ先と同じ光だ。
人殺しの目や、とギンは悟った。
ただの闇商人などではない。この男は、目的のためならば人を殺めることができるのだ。






二人はそのまま、互いに刃を下ろすこともなく睨み合っていた。
緊迫した空気が伝わったのか、ごそ、と布団が動く音がして、下のほうから掠れた声が漏れた。
「ギ、ン…?帰ったのか…?」
ギンは浦原から目を離さず、声だけで答えた。
「なんでこんな男のとこ来たんや」
不機嫌そうなギンの言葉に、ルキアは少なからず驚いたようだった。戸惑った声が続く。
「知っているのか、この男を…?」
「小間物なんか売っとるけど、本業はあくどい闇商人や」
少し間があって、ルキアは、ふう、と薄く溜息をついた。
「他に…頼る者などおらんのだ…」
「朽木さんは、こっちに身寄りがないっスからねぇ」
しばらく、沈黙があった。
障子の向こうで、きぃと百舌鳥が鳴く。日が僅かに傾き、ルキアの寝ている布団に影が落ちていた。








「じゃ、こうしましょう!」
突然、浦原は底抜けに明るい声を出すと、ぱっとギンの刃から離れた。
「今日から朽木さんは、アタシの茶飲み友達ってことで」
懐から扇子を出すと、ひらひらとあおぎながら笑う。短刀は既に、どこかに仕舞われていた。
「で、週の前半は市丸さんに譲りますから、後半はうちに遊びにいらっしゃいな」
「譲るて何や!勝手に決めなや!」
「もちろんお友達ですから、いつでも頼りに来ていいんスよ」
ギンの怒りを完全に無視して、浦原はルキアの顔をにこにこと覗き込んだ。もちろん、ギンの脇差が届かない距離を十分に保ったまま。
「アタシってば、こんないい案、どうして今まで気づかなかったんスかねぇ」
へらりと笑ってルキアの枕元に座り込むと、おや、とわざとらしく首を傾げた。
「今日は週の後半っスね。せっかくですから朽木さん、泊まってって下さい」
そしてぱんぱん、と手を叩いて、鉄斎、鉄斎、夜着を、と声を上げる。



ルキアの唇に、他の男の痕跡が残っているだけでも許しがたいのに、さらに泊まってゆくなどと、不穏極まりない。危険や、この男は危険や、とギンの勘が訴える。
「こない危ないところにルキアちゃんを置いていけへん!」
慌てたギンがルキアを抱き上げようとする。しかし背中を起こされた瞬間、
「っ…ごほごほっ」
ルキアが盛大に咳き込んだ。いつの間にかギンの背後に回っていた浦原が、低い声で言う。
「無理に起こしちゃいけないっスよ」
ルキアは咳き込んで潤んでしまった目で、そろりとギンを見上げた。
「すまぬ、ギン」
そう弱弱しく言われては、さすがのギンも無理ができない。まだ喉をぜいぜいと言わせたままのルキアを、ギンはそっと布団に戻した。
「なら、僕はここで見張らせてもらうわ」
しかしルキアは横になったまま、首を左右に振った。
「ギン、貴様まで浦原に迷惑をかけるわけにはゆかぬ」
帰れ、と言うのだ。自分をこの家において、ギンだけ帰れと言うのだ。
「ルキアちゃんは分かってへんよ、あの男の性根を」
ルキアはまるで幼子を諭すように、眉根を寄せて、困った笑みを浮かべた。
「ただの茶飲み友達だろう?案ずるな」



―嗚呼…!!!!
ルキアの無邪気な言葉に、ギンは危うく、ぐらぐらと眩暈で倒れるところだった。
疑うことを知らないルキアの性格が、ギンの格好のからかいの元であるし、その素直さが堪らなく愛しいことも事実だ。
けれど、けれどまさかそれが、他の男にも向けられるとは!



「案ずるなて!えげつない春画ばらまく男やろ」
「何のことっスか?」
浦原は扇子で口元を隠すと、とぼけてみせる。ルキアは再び溜息をついて、駄々をこねる幼子を見るような視線を上げた。
「…そのことは、後で私がちゃんと聞いておく」
「いいや聞かんで良え。どさくさに紛れて何されるか分からへん」
浦原が薄く笑う気配があった。その振る舞いが、ますますギンを苛立たせる。



このままでは埒が明かない、と悟ったのだろう。ルキアが静かに浦原を見た。
「浦原」
「はい」
「すまないが、貴様もこの部屋を出てくれ。私の世話はうるるに頼みたい」
「はい…って、アタシも出るんスか!?」
「うむ。というわけだから、ギン。貴様も家に帰れ」
「いやや。そんならルキアちゃんが治るまで、僕はそこの縁側におるわ」
「他人の家に居座るとは、物騒スねぇ。なら、アタシはこっちの縁側で見張らせてもらいますよ」




3日後、ルキアの体調が戻って帰宅するまで、二人の男は確かに縁側に座ったままだった。




その後、週の前半と後半で繰り広げられた騒動は、やがて京の街を巻き込み、多大な犠牲と恩恵を生み、この国の歴史を変えてしまう事態にまで発展するのだが―
歴史の表には出せないこと故、詳細は皆様のご想像にお任せします。










長くなりましたが、これで一応完結です。いつもどおり、うっちゃり気味な終わり方なのはご容赦を…
着地点が見出せなかったのです…うぅ。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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