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淡雪記・秋思(前)





ギンが、旅に出た。



江戸に置いていたままの部下が、盗みの準備に手間取っているらしく、助けを求めてきた。
ギンは無視するつもりだったらしいが、ルキアが説得して、ようやく様子を見に行かせることになった。
上方から江戸までは、飛脚や馬でも3日はかかる。
ギンが飛脚のように走って行くはずはないし、ずっと馬に揺られているわけにもいかないだろう。
早くても1週間、遅ければ何週間になるのか。



それが分かっているのかいないのか、出発の日が近づいても、ギンの様子はいつもと変わらなかった。ふらりと出かけては、いつの間にか帰ってきて、ルキアをからかってばかりいる。出立の用意をしているようには見えない。
―さては、やはり行かないつもりなのか。
ルキアが問いただそうとした、出発予定の朝―



ほんの少しの荷物を抱えて、ギンが部屋を訪れた。
思わず、ルキアの顔が強張る。何も言わず、ただ見上げるだけのルキアの前にしゃがむと、ギンはぽん、とルキアの頭に手を置いて言った。
「知らん男についてったらあかんよ?」
「子ども扱いするな!」
ぷい、とそっぽを向いたルキアの背後で、ギンが立ち上がる気配があった。
慌ててルキアが振り向いたとき、そこにもうギンの姿はなかった。ぎし、と廊下を歩む音が遠ざかる。初秋の清々しい風が、家の中を吹き抜けてゆく。
まるで散歩にでも行くように、ギンは、旅に出た。




元々、いるかいないか分からないような男だが、
「…心もとないものだな」
いない、と思うとあまりにも所在無く、数間しかない小さな家もがらんと広く感じられる。
萩の揺れる庭先では、滑るように蜻蛉が飛び交っていた。日中は汗ばむ日もあるが、朝夕は随分と涼しい。衣替えをし、まだ見慣れない京野菜を買い求めたりして、ルキアは忙しく過ごした。






数日後。
おそらくギンに言われていたのだろう、夕暮れ時に一人の部下が様子を見に来た。
「何も問題ない」
そう言って帰らせ、部下の足音が聞こえなくなるのを待ってから、ルキアは玄関にどさりと座り込んだ。
体が熱っぽい。ぞわぞわと寒気が襲ってくる。
くらくらと眩暈がして、立っていることができない。結局、朝から何も喉を通らなかった。
肌寒い、と思いながらも、窓を開け放したまま寝たのがいけなかったのだ。


どうしたらいいだろう、とルキアは途方に暮れた。今は、一人なのだ。
京に、頼ることのできる知り合いなどいない。往診しかしてもらったことがないから、医者の家も分からない。
どうしたものか、とまとまらない頭で考えていたが、このまま家にいても治り様がない、と思い直し、とりあえず家を出ることにした。



家の錠を閉め、一番近くの辻に出たところで、運よく駕籠が通りかかった。
「何処へ行かはりますか?」


何処へ―


と考えていた頭に、ふと一人の名前が浮かんだ。
倒れこむように駕籠に乗ると、ただ一言、行き先を告げる。駕籠の不安定な動きに揺られて、いつのまにかルキアは寝入っていた。






「着きましたよ」
ふわふわと揺れ続けていた駕籠が地面に降ろされても、ルキアは立ち上がらなかった。
「どないしはりました?」
駕籠かき二人が驚いて覗き込んでみると、ぐったりと駕籠の背に寄りかかり、こめかみからうっすらと汗を流している。
すぐに、からんと下駄の音がして、目の前の店「紅屋」から男が現れた。
「いやぁ、すみませんね」
縞の羽織をなびかせながら歩み寄ると、浦原は不安げな様子の駕籠かきに、硬貨を数枚渡した。
「お代はこれで足りますか?」
「へぇ、十分です」
駕籠の側に、腰を下ろす。
「朽木さん」
浦原が声をかけても、ルキアは目を閉じたまま、応える気配がない。
顔は真っ青なのに、頬だけが赤く上気している。ルキアの額に手を当てると、浦原の表情が険しくなった。
そのまま、華奢な背中と膝裏に腕を入れて抱え上げる。からん、と下駄を上がり口に脱ぎ捨てて、浦原は紅屋の奥へと急いだ。











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