御題目次

淡雪記・夏





「れ、恋次!」
「しっかりつかまってろ!」
一頭の黒馬が、夜道を駆け抜ける。恋次はその馬の上で、必死に手綱を繰っていた。
鞍の前部分には、ルキアが乗っている。ルキアが落馬しないように気を使いながら、それでも恋次は馬の腹を蹴り続けた。
ルキアは鞍にしがみついたまま、首だけで振り返って叫んだ。
「屋敷が!兄様が!」
「あの人は無事だ!今は逃げることだけ考えろ!」
恋次も大声で答える。
ゆっくり話している時間はない。今は、一刻も早く江戸から離れなければならない。見つかれば、おそらく二人とも殺されるのだ。
宿場沿いの大きな道は、賊が見張っている可能性がある。恋次は人気のない田舎道を選んで、ただひたすら馬を走らせた。




小半時ほど走って、江戸の町を見下ろせる小高い場所に出た。
「どう!」
手綱を引いて、馬を止める。同時に、二人は遠くに見える一点を見つめた。
湯島天神の大きな屋根が、遠目にもよく見える。そこから少し離れた場所に、赤々と燃える火が見えた。朽木邸が、まだ燃えているのだ。
「みな、無事だろうか」
この期に及んでも、ルキアが心配しているのは他人のことばかりだ。
「…無事さ」
恋次は少し苛立ちの混じった声で答えた。




火を放ったのは、賊の誰かだろう。
火の回りは速かった。屋敷はあっという間に火に包まれ、炎の塊が舐めるように部屋から部屋へと移っていった。
「ルキア!どこだ!」
火の粉を振り払いながら屋敷の奥へ駆けつけた恋次は、中ほどの廊下でルキアを見つけた。
「恋次!」
駆け寄った小さな体を、何も言わず抱え上げる。すぐに踵を返し、屋敷の外へ出ようとしたとき―
振り向くと、燃え上がる炎を背負うようにして白哉が立っていた。
「―兄様」
ごうごうと音を立てて、辺りの部屋が燃えている。その轟音の中でも、白哉の声は不思議と二人の耳に届いた。
「裏門に私の馬がある」
炎の塊になった屋根柱が、恋次の側に崩れ落ちる。全てを燃えつくす熱が、すぐ近くまで迫っている。皮膚がちりちりと痛む。息が苦しい。
白哉は恋次に厳しい目線を向けると、すっと裏口を指差した。
「何をしている。急げ」
「兄様っ」
恋次は無言で頷くと、汗ばむ腕でルキアを抱え直し、裏門へと走った。振り返ったとき、白哉の姿はもう見えなかった。




屋敷の炎は、見ている間に小さくなっていった。それでも、鞍を握るルキアの手が小さく震えている。恋次はその手を上から強く握り締めると、
「行くぜ」
馬首をめぐらし、馬の腹を蹴った。馬は再び、勢いよく走り出す。
ルキアはいつまでも名残惜しそうに、燃える屋敷を振り返っていた。












「母さん!母さん!」
日に焼けた少年が、まるで子犬のように、弾むように駆けてくる。
家までの坂道をずっと走ってきたのだろう、家に着くころには、はぁはぁと肩で息をしていた。
少年は家の戸口を開けると、履いていた草履をもどかしそうに投げ捨てた。そのまま転がるように玄関を上がると、どたばたと奥へと駆け込む。
そして、座敷にいたルキアを見つけ、真っ白な歯を見せて笑った。
「叔父さんから文だよ!近いうちに来るって!」
その勢いのまま、胸になだれ込んできた我が子を、ルキアは慌てて抱きとめた。
「そうか、良かったではないか」
汗と、ほこりと、子供らしい甘酸っぱい匂いがして、思わず強く抱きしめる。
「―またかよ」
少しうんざりした声がして、二人は同時に振り向いた。恋次が、袴の帯を締めながら立っていた。
「この間、来たばっかだろ」
うんざりした顔の恋次と、嬉しそうな息子の顔を見て、ルキアは苦笑した。
「兄様も嬉しいのだろう。あの人には子がおらぬからな」
「こがおらぬからな!」
少年はけらけらと笑いながら真似すると、ルキアの膝にぴょんと腰を下ろした。
「ほら、私にも兄様の文を見せてくれ」
ルキアはその手から、紙の束をひらりと奪い取った。








江戸から遠く離れた、西国の港町。
あれから何日も、身を隠しながら逃げ続けた二人は、この町に落ち着いた。
海がとても綺麗で、二人ともそれが気に入った。江戸にいた頃は、海など見たことがなかったのだ。
恋次はすぐに馴染んだ。町の大人に剣術を教え、空いた時間には船に乗る。そうした自由な生活が性に合っていて、町の人たちからも随分慕われていた。今日もこれから、町の道場へ行くことになっている。




「晴れたな」
縁側から外を眺めて、ルキアは大きく伸びをした。
高台にあるこの家からは、海と港が見渡せる。地平線まで広がる海が、きらきらと光ってとても眩しい。綿をちぎったような雲が、ぽつんぽつんと浮かんでいる。
岬と岬の間にある湾が、天然の港になっていて、いくつもの船が真っ白な帆を広げて行き来していた。海運の要所であるここの港は、船がひっきりなしに出入りしていて、とても賑やかだ。
港の周りには商家や町屋が並び、そこからこの家までは、一本の坂道でつながっている。
その道を、道場着姿の青年が歩いて来るのが見えた。恋次を迎えに来たのだろう。




ルキアの病は、すぐに治った。
「なぁに、お日様浴びて、ここの魚を食ってりゃ、すぐに治りますよ」
この町へ来てすぐに診せた医者は、いかにも健康そうに日に焼けた顔をしわくちゃにして笑いながら、そう言った。そしてその通りに、ルキアはあっという間に元気になった。
やがて、子が生まれた。子を産んでからのルキアは、ますます強く、たくましくなった。時々、町の寺子屋へ行って、読み書きや長刀を教えている。




ちょうどその頃、どこでどうやって居場所を知ったか分からないが、不意に白哉が訪れた。
生まれたばかりの甥を抱き、珍しく神妙な顔をしていたこの叔父は、以来、かなり頻繁にやって来るようになった。どうも、ここからそう遠くない町に暮らしているんじゃないか、と恋次はいぶかしんでいる。
というより、実はもうあきれている。




―綺麗に、なったな
豪華な着物を着て部屋にじっと座っているよりも、こうして日を浴びて動き回っているルキアのほうが、ずっと綺麗に見える。
ルキアの横顔を見ていた恋次は、つん、と袴の裾を引かれて我に帰った。見下ろすと、よちよち歩きの娘が両手を伸ばしている。
「とーしゃん」
「おう」
勢いよく抱き上げると、ルキアによく似た娘は、きゃっきゃと可愛らしい声で笑った。




阿散井先生、と玄関で呼ぶ声がする。
「じゃ、行ってくる」
少年はルキアの足元にまとわりついたまま、顔だけ恋次のほうに向けた。
「父さん!お土産!」
「おぅ、何がいい?」



「「白玉!!!」」



同時に二人の声が返ってきて、恋次は思わず吹き出した。
「了解」
りょーかい、りょーかい、と子供二人が真似する声と、ルキアの笑い声を聞きながら、恋次はあたたかい思いで我が家を出た。
鳶が円を描きながら、ゆっくりと飛んでいる。
空はどこまでも青く、澄んでいた。










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