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淡雪記・闇





剣八が、一角と弓親を引き連れて朽木家の屋敷へ着いたとき、日はとうに暮れていた。
江戸の空には分厚い雲がかかり、その雲の切れ間から、星が瞬いているのが見える。無論、剣八は星など見向きもしないが。




その重たい夜空を覚ますように、あまり遠くない場所で鐘を激しく叩く音が聞こえた。
一角と弓親が、カンカンカンカンと音のするほうを見る。北の空が、わずかに赤い。
「火事っすね」
「どうします?」
剣八は興味なさそうに首を鳴らした。
「誰かが消すだろ、俺達には関係ねぇ。行くぜ」
言うと同時に、正門を蹴破った。




粉々になった正門の向こうには、大勢の男がいた。
全員が刀を構えているところを見ると、格好はどうあれ、みな侍なのだろう。屋敷の用心棒だけではなく、近所の用心番や屋敷からも加勢が来たらしい。
剣八は隠れもせずに歩くから、来訪がすぐに相手に伝わる。待ち構えた大勢を相手にするのは、3人とももう慣れていた。
剣八の後ろにいた一角と弓親が、鼻で笑う。
「火消しの加勢に行ったほうがいいんじゃねぇの」
「同感だね。そのほうがよっぽど有意義だ」
おおぅ、と侍達が気勢を上げる。
「おもしれぇ」
剣八はにやりと笑うと、ぶら下げていた刀を侍たちに向かって突き出した。
「死にてぇ奴からかかって来い!」








屋敷の中だろうと庭だろうと構わず、斬りまわった。
いつの間にか明かりはなくなり、暗闇の中、ただひたすらに斬った。向かってくる人影は、一振りのもとに斬り捨てた。
明かりはなくても構わなかった。否、明かりなど最早邪魔なだけだった。斬れば斬るほど、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされてゆく。
じりじりと近づく、すり足の音。対峙した瞬間の押し殺した息遣い。刀が空気を裂く音。骨が断ち切られる確かな感触。血の匂い。
びりびりとしたその感覚を、剣八は愉しんだ。








何人くらい斬っただろうか、剣八はただただ剣を振るうことに夢中になっていた。
襖をなぎ払い、目の前に現れた人影を、反射的にざくりと斬る。




その瞬間―
手に伝わる感触が、今までの人影とは違うことに、はたと気がついた。
細い骨を、力任せに砕いた感触―




剣八の動きが止まる。
刀を左肩に受けたまま、相手も立ち尽くしている。
一角たちの怒号と刀のぶつかり合う音が、離れたところで聞こえる。
キィ、と夜空で鳥が鳴く。
暗闇の中かろうじて分かるのは、相手が剣八よりもずっと小柄だ、ということだ。
剣八の大きな手が、小刻みに震え出した。




「一角!弓親!明かりを持って来い!急げ!」
尋常ではない怒鳴り声を聞きつけて、すぐさま行灯を手にした一角たちが集まってきた。
「どうしたんすか!?」
「今、明かり…を…あっ」








血刀を手にした二人が、立ち尽くす。
弱い明かりに照らされ、闇の中に浮かび上がったのは、剣八の一太刀を受けて血に染まるルキアの姿だった。








「朽木…の…!」




剣八は刀を振り捨てた。床にぶつかった刀はがしゃりと派手な音を立て、刀身と鍔や柄がばらけて転がった。
ルキアの肩口から、どろりとした血があふれ出す。
がくりと倒れこんだルキアの体を、剣八は慌てて抱えた。
「なんでてめぇ、ここにいるんだ!」
「う…」
「なんで出てきたんだ!」
剣八の大きな腕の中で、ルキアは壊れた人形のようにぐったりとしたまま動かない。
「おい!」
ルキアの夜着の胸が、わずかに上下している。
「朽木の、俺は…」
「…存じております、更木殿」
ルキアは静かに、しかしはっきりとした口調で言うと、薄く瞼を開いた。
「私も、お慕い申し上げておりました」
真っ白な夜着が、見る間に赤黒く染まってゆく。剣八の手にも、ぬるりとした生暖かい感触が伝わった。
「私を朽木家の養女としてではなく、一人の人間として見てくれたのは…貴方だけでした」








一人の人間として見る、などと剣八は意識したつもりはない。
ただ、他の連中にするのと同じように、ルキアもまた投げ飛ばしただけだ。




強い相手を求めて押し入った道場に、ルキアはいた。
道場に女がいるのを見たのは、初めてだった。が、剣八にとっては相手が男だろうが女だろうが、どうでもいいことだ。ただ、強くさえあれば。
ルキアは強かった。しかしやはり、剣八の相手をするには力が足りなかった。
剣八は何度も、その小さな体を払い飛ばした。木刀で叩き、押し飛ばし、なぎ倒した。
その度に、この一見華奢な女は立ち上がり、木刀を構えなおした。
「もう一本!」
まるで、嬉しそうに。
おもしろい、と思った。剣八と対峙して恐れを見せない相手は、一角と弓親以来だ。
手近にいたら愉しいだろう、と思った。
だから、もらいに来た。それだけだ。








そのルキアが今、剣八の腕の中で、剣八の所為で、事切れようとしている。
「迎えに来て下さった、のでしょう?…ですが、申し訳ありません…」
苦しげに眉根を寄せると、ふぅ、と大きく息を吐く。
「先に行きます…」
「っ…」
近くの火事ももう治まったのだろう、鐘の音も聞こえず、夜はしんと静まりかえっていた。
弓親の持つ蝋燭の明かりで、ルキアの瞳は暗く深く輝いている。ルキアはふっと、その目を細めた。
「病ではなく…更木殿の太刀で、この命を終えることができ…嬉しく思います」
息を飲む笑顔だった。
苦悶も邪気もない、ただ真っ新な、子どものような笑顔だった。
一角と弓親は、背筋がぞくりとあわ立つのを抑えられなかった。
彼岸の淵を目の前にして、大きな傷を負いながら、こう笑える者などいない。
剣八が手に入れようとしていたのは、やはり、そういう女だったのだ。




そっと、ルキアの右手が持ち上がる。
細く白い腕は、かつて道場で刀を握っていたときのように、迷いなく剣八の右眼に伸べられた。
「だから…そんな顔を、なさらないで下さい…どうか、この目に…」
指先が、剣八の瞼に触れる。その指がすでに温度をなくしていることに気づいて、剣八は息を飲んだ。
見上げる藤色の瞳が、水の膜を張ったように揺らいでいる。
「私の姿を…未来永劫、焼き、付け、て…」
そして淡く微笑み、ゆっくりと目を閉じる。両腕の中で、ルキアの体がふっと重くなるのが分かった。
「おい!」
剣八は、離れそうになるルキアの右手を慌てて掴んだ。
「おい!朽木の!」
呼びかけた振動で、ルキアの両瞼から小さな滴が、つるりと落ちる。
一角と弓親が、顔を反らす。
ルキアは、答えない。
しん、と闇が濃くなる。




うおおおお、と獣のような咆哮が闇夜にこだました。








その後、江戸で剣八の姿を見た者はいない。












同じ時期、海を隔てた明国に、ある盗賊が現れた。
数人の手下を従えたその頭目は、十尺もあるかという大男で、頭髪を長く垂らし、ボロボロの刀をぶら下げ、明国中の武術を荒らして回った。
頭目は、右眼に刀の鍔の眼帯をしていた。
あるとき、明国で新しく仲間に加わった男の一人が、眼帯の下の右眼が健在であることに気づいた。
妻も持たず、女も抱かず、酒も飲まないその男は、眼帯の理由を聞かれてこう答えたという。




「ただ一人、俺が共にありたいと思う人がここにいる」














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