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淡雪記・着物にまつわる嫉妬〜闇の商人・浦原の場合〜(前)





月も上らぬ常闇の夜,愛らしい小物や文具を扱う小さなお店『紅屋』はとうに暖簾を下ろし店は閉まっていた。
しかし,店の主である男が住まう店と隣接する離れには煌々と明かりが灯っていた。




行灯ではなく灯台を狭い己の私室の四隅に灯し,蝋燭独特の柔かなしっとりとした光の中,男は絵筆を握っていた。筆を咥えて,やや眠たげな瞳の奥に熱を滾らせながら,一心に白い紙に筆を滑らせるそのさまは,何時ものしまりのない小物屋の主人とは到底思えぬほど真摯で,その筆の運びには一分の隙もなかった。


色はのせられてはいない,黒ぐろとした墨で描かれていく淫らにして華麗な筆さばき,男は浮世絵の下絵を描いているのだ。描かれていくのは男女の情交の絵,いわゆる春画と呼ばれるものである。
もっとも,それだけなら,さして珍しい光景ではない。腕に覚えのある絵師が頼まれたり,自ら版元に売り込んだりするために春画の下絵を描くことはよくあることなのだから。
小物屋の主人が絵師であったというだけのことである。
しかし,その被写体が少々変わっていた。




肉間的かつ豊満な女を一般的な男が好むのは世の習い,だがその絵の中に描かれている女性は豊満とは程遠い華奢な肢体の可憐な少女であったのだ。
下絵であるため,まだ色はのせられてはいないが,たくましい男の背にたおやかな腕をまわし,唇をわななかせ蕩けるような恍惚の表情で絡みあう少女は最近彼の店を気に入り,よく買い物にやってくるひとりの女客と酷似していた。







「ほお,おぬしが筆をとるとは,よほどの相手に巡り会えたようじゃの,喜助。」


気配もなく不意に呼びかけられた声に,さして驚いた様子もなく男は振り向き開いた戸口にもたれかかり闇夜に溶けてしまいそうな黒装束姿の人物に笑いかけた。
「夜一さんお久しぶりですね。もう少し遅くなると思っていたんスけどね。」
喜助と呼ばれた男はゆるりと顔を上げ,声をかけてきた人物を見やり,うっすらと笑った。
黒装束の人物が深くかぶっていた頭巾を取ると,頭の後ろで一括りにした漆黒の髪が流れ,猫のような金色の瞳の褐色の肌の美女が現れた。




彼女の名は夜一,もう数十年来の彼の仕事仲間であった。
彼女の生業は海賊,豪商が商う美術品や骨董品を積んだ船専門の凄腕の女賊である。狙った獲物は決して逃さずその手際の良さと引き上げの速さ,鮮やかさから『瞬神夜一』と恐れられている。
そして,喜助と呼ばれた男は小さな小物屋の店主というのは仮の姿,その実,夜一が手に入れた盗品を独自の経路で売りさばく闇の商人であった。名を浦原喜助といった。




「見たところ,まだ小娘のようだが,なんともそそるおなごじゃな。もう抱いたのか?」
夜一は描かれている少女の肢体に眼を走らせると,猫のような舌をちろりと出し,形良い唇をなめた。男であれ女であれ,好みに合えば同衾を厭わない昔馴染みの性癖はよく知っているので浦原は軽く苦笑して牽制する。
「人聞きが悪いなあ。この子はうちの店によく来るお客さんっスよ。素人のお嬢さんに手を出すほど飢えてはいないでしょう?」
「ふん,喰ろうておらぬとはな。ますます珍しいことじゃの。絵の被写体はまず味わってから描くのがおぬしの流儀であったはずじゃがの。」
「ひどいなあ。人を色狂いみたいに。」
「千人斬りの浦原が何を寝ぼけたことを。」
「昔のことっスよ。」



かつては花街の太夫から素人の町娘までその男ぶりと閨房術の凄まじき手腕で喰い散らかしてきたこともあったが,正直さんざん女道楽をし尽くしてきた浦原は女には飽いたと思っていた。







あの少女に出会うまでは…










kokuriko様からの頂きものです!
せ…千人斬りの浦原…!!悶えるーー!!ギンとは少しベクトルの違う、ほの暗い情念がたまりませんv
そしてまさかの夜ルキフラグ!?百合もアリなのかルキア…!?

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