裏回廊目次

淡雪記・着物にまつわる嫉妬〜盗賊・狐火のギンの場合〜(前)





水無月の京都、亥の刻―



しんと寝静まった町並みのなか、呉服商・菱屋の裏口の扉が、静かに内側から開けられた。
どこからともなく現れた黒尽くめの男達が、音もなく扉の中へと入ってゆく。
その一番後ろから、ギンはまるで散歩でもするように現れると、ひょいと扉をくぐった。
静かに扉が閉められると、そこにはいつも通りの京の夜が広がる。



菱屋へ入ると部下たちはすぐに、金品の眠っている蔵へと向かった。それを無視して、ギンは母屋の廊下を音もなく進む。
屋敷の間取りは頭に入っていた。暗がりの中、迷うことなく客間に向かうと、鴨居をくぐって床の間の前に立つ。
いつの間にか、部下の一人が後ろに立っていた。今回、菱屋に「奉公人」として潜り込ませていた部下だ。
「―お頭」
「これやな?」
「…はい」
しばらく、ギンは無言だった。数秒の沈黙にいたたまれず部下が口を開こうとしたとき、
「ほな、僕帰るわ」
鷹揚に言うと、くるりと踵を帰した。去り際、床の間に飾られていたものをばさりと剥ぎ取り、懐に仕舞う。
夜陰に紛れて、その顔はうかがえないままだった。



菱屋のある四条から東山の家までは、少し距離がある。
途中、駕篭かきに声を掛けられたが、ギンは片手で払い、軽くあしらった。
通りがかった先斗町で顔なじみ芸妓に声を掛けられたが、それも通り過ぎる。
他人の気配が鬱陶しい。誰の声も聞きたくない。
今日は、すぐに家へ戻りたい気分だった。








かた、と音がしたような気がした。
ルキアは読んでいた本から顔を上げると、じっと耳をすました。りりり、と庭で虫の鳴く声がする。梅雨が明けるにしたがって、虫の声が少しずつ増えてきた。
蝋燭の芯もだいぶ減ったが、部下たちが戻ってくるにはまだ早すぎる。
しかし思い違いではないような気がして、ルキアはそっと自室を出ると、音を立てないよう注意して階段を下りた。



一階の居間に、蝋燭が灯されていた。
そっと覗くと、灯りから離れたところで、暗闇に溶け込むようにギンが柱にもたれかかっている。
珍しく墨色の単衣を着ているのは、ギンなりの盗み装束なのだろう。立てひざの向こうに、ちらりと臙脂色の博多帯が見える。ギンらしい色合わせだな、と思いながら、ルキアは居間に足を踏み入れた。
「もう、済んだのか?」
返事はなかった。
「途中で帰ってきたのだな?」
ギンが盗みの現場に行くことは稀だ。だから、ルキアとギンがいなくても事が運べるように、部下たちには教え込んである。
今日、何を思ったのか、ギンは自分も菱屋へ行くとルキアに告げていた。
珍しくやる気を出してくれたのかと期待したが、やはり、一時の気まぐれだったのか。ルキアは小さく溜息をつくと、部屋の中に腰を下ろした。



その動きで、ふっと蝋燭の灯りが揺れる。それを合図のように、ギンが着物の懐から一枚の紙を取り出すと、灯りの前に放り出した。




「これ、どういうことやの」




静かな声だった。
虫の声にすら溶け込んでしまうような、静かで、そして厳しい声だった。
出された紙を見下ろして、ルキアがはっと息を飲む。
それは一枚の、浮世絵だった。
一人の女性が刷られていた。女性だけではない。女性に絡みつくように、半裸の男性が描かれている。
ルキアだって知っている。春画と言われ、貸し本屋でも人気の商品だ。



描かれているのは、黒髪で薄紫の目をした女性だった。
まるで幼子のような大きな目に小さな口元、細く華奢な身体。
―ルキアだ。




「どういうことやの」
再び、ギンが問う。
静かな声の奥に、しかし今度は抑えがたい苛烈なものが潜んでいることを悟り、ルキアは顔を強張らせた。
「なんで―」
知らず知らずのうちに、声が上ずる。
「なんで、こんなものが」







当惑する頭の中で、ルキアは一人の男に思い当たった。
よく小物や文具などを買いに行く店の主人が、いつもルキアをからかっては、軽口を叩いていた。
「朽木さんは可愛いっスねぇ。浮世絵なんかにしたら、きっと大人気っスよ〜」
目深にかぶった帽子の陰から覗く目が、本当は笑っていないことくらい気づいていた。
―あの男だ。
そのことが顔に出たのだろう。ギンはじっとルキアを見つめたまま、
「思い当たることがあるんやね?」
少しだけ、声を強めた。
「っ…違う…!」
す、と膝立ちでギンが近づく。
「どう、違うん?」
「この版元には思い当たる。けれど、私は!」
にじりよるギンの気配に、思わず後ずさる。けれども、その顔を見ることができない。
「私は…こんなことは…っ」
ギンの大きな手が、ルキアの肩を掴む。
「こんなことって?」
白い浴衣をまとった、ルキアの襟元が乱れる。
「こういうこと?」
「ギ、ン…っ」
あっけなく押し倒され、畳で後頭部を打つ。すみれ色の兵児帯をしゅるしゅると解かれ、細い肢体を晒すのに、そう時間はかからなかった。








潜り込ませていた部下からの報告だった。
菱屋の客間に、ルキアらしい人物を描いたが飾られている、と。
どんなやの、と聞いたギンに、部下は何も答えなかった。答えなかったから、ギンには分かってしまった。
内々に調べてみると、どうやら大層な人気で、かなり高値で取り引きされているらしい。客間の床の間なんぞに飾られていたのは、つまりはそういうことで、懇意の者に見せびらかしていたのだろう。




菱屋の客間で初めてそれを見たギンは、しばらく言葉を無くした。
浅葱色の着物がはだける様に、真っ白な肌が映える。金糸で千鳥の刺繍を施した黒帯が、まるで睦み合いの激しさを物語るように、布団の上に波打っていた。
朱の襦袢が、苦しげに宙に伸びた両足にからみつく。恍惚とのけぞる女の顔に、黒髪が張り付いている。その両手は、しっかりと男の背を握り締めていた。




良う出来てる。
良え画や、と思った。
ただ、相手の男が自分でないことを除いては。














裏回廊目次


Copyright(c) 2011 酩酊の回廊 all rights reserved.