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淡雪記・春(前)





夜―



少しだけ開けた障子の隙間から、生暖かい風が入ってくる。
来るとしたら、おそらく今日だろうと思った。だからルキアは、夜が更けても寝ずに、本を読みながらその時を待っていた。
蝋燭の明かりに、小さな虫がはたはたと舞う。虫たちが起き始めている。春が、近いのだ。




風が、吹いたような気がした。
ふと瞼を起こすと、薄く開かれた、空色の瞳と視線が合った。ひやり、と背筋が凍る。見透かしたように、細い瞳はゆらりと笑った。
「寝顔もええなぁ」
慌てて、がばりと体を起こす。目の前に広げられた本は、先ほどから全く進んでいない。蝋燭の芯が幾分減っている。
文机にもたれかかって、寝てしまったのだ。



目の前の男は、ゆったりと組んだ胡坐に肘をついたまま、ルキアの顔を楽しげに見ている。
ルキアは緩んでしまっていた顔を慌てて取り繕うと、眉根を寄せた。
「やはり来たか、市丸ギン」
「待っててくれたんやねぇ」
違う、と言いかけてルキアは口を噤んだ。楽しみにしていたわけではない、それでも待っていたのは事実だ。
「そんなら、行こうか」
「行く?」
「言うたはずや。次に来る時は、ルキアちゃんを盗んで行く時や、って」



―そう。
あの夜、盗賊・狐火のギンは「今度は君を盗りにくるから」と言って帰っていったのだ。



「ボクは盗賊や。盗むのが仕事」
いつもの訛りでゆっくりと、幼い子に教えるように告げる。ルキアはそれを遮るように、鋭い覚悟を持って尋ねた。
「私を盗んで何とする」
慰み者にするつもりなのか、女衒に売り渡し金に代えるのか。
が、ギンの返事は拍子抜けするほどにぼんやりとしていた。
「さぁ…」
ギンは遠くを見るようにして、細い眼をすがめる。この男にしては珍しく、少しの逡巡があった。
「そうやねぇ…このつまらん世界が、ほんの少しでも面白うなったら良えかなぁ」



ゆら、と蝋燭の火が揺れる。
顔をそむけていたギンは、気づかなかった。ルキアの顔が、曇ったことに。その目が、哀れみの色を浮かべていたことに。
深く息を吸って、ルキアは一人でこくりと頷いた。
「…判った」
ギンは少し驚いて視線を戻した。毅然とした目が、こちらを見ている。
「ならば私は貴様の元へ行こう」
「―?」
ギンが僅かに首を傾げる。ルキアの瞳は揺らがなかった。
「盗まれるのではない。私は、私の意志で行くのだ」



「―く」
一瞬の間が空いて、ギンは腹を抱えて笑い出した。
「くっくっく」
「な、何がおかしい?」
ルキアは訳が分からない、といった顔でギンを睨みつけている。
「やっぱ面白いなぁ、ルキアちゃんは。思たとおりや」
笑い顔を隠そうともせず、ギンはゆらりと腰を上げた。
「なら、待ってるわ。けどルキアちゃん、約束は守らなあかんよ」
「貴様を相手に、約束を反故にしようなどと思わん」
そんなことをしたら、恐ろしいことになるのは分かっている。
「良え子や」
す、とギンが手を伸ばす気配に、ルキアが体を強張らせる。しかしギンは、ぽんぽん、とルキアの頭を撫でただけで、そのまま文机の前を通り過ぎる。
去っていく後姿を見つめる。ひら、と手を振ると、ギンは来たときのように静かに障子の向こうに消えた。
今日も、家人には誰も気づかれないままだった。











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