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淡雪記・秋(続々)





がちゃ、と鍵を開けて部屋に入る。ばたんと無機質な音がしてドアが閉まると、本と煙草の匂いが体を包む。
視線を落として玄関で靴を脱いでいると、窓際から声がかけられた。
「遅かったではないか」
「あぁ」
「どこに行っておったのだ」
「国立図書館」
「ショカン…何か書簡でも来ておったのか?」



頓珍漢な答えに、しばし阿近は頭を巡らせた。
―何を、馬鹿なこと…
そして声の主に思い当たって、阿近は弾かれたように顔を上げる。
開け放たれた窓の光を背にして、澄んだ大きな瞳が、射抜くように阿近を見ていた。
「―お前」
その瞬間、息をすることを忘れた。
抱えていた本をどさりと投げ出して、窓際に駆け寄る。声の主は、ソファに腰掛けたままじっと阿近が近づくのを見つめている。



目の前に跪いた阿近を、ルキアはゆっくりと見上げた。
「いつ目覚めた?」
「目覚めた?やはり私は寝ていたのか?」
長い睫毛が、せわしく上下する。そのたびに、水晶のような瞳が隠れては現れる。
「何をした?」
「まだ何もしておらん。うまく立てぬのだ」
「そうじゃない、なんで起きた―」



言いかけて、阿近は窓の外に、3人の高校生の姿があることに気づいた。その中の一人、橙色の髪をした少年が、険しい表情でじっと見上げている。
阿近の視線の先を追って、ルキアが窓の外を見下ろした。
「そう、あやつに呼ばれたのだ。それで起きたのかもしれん」
阿近は怪訝そうに顔をしかめると、視線をルキアに戻した。
「そんなことで―」
絶句する阿近をよそに、ルキアはぐるりと辺りを見渡す。
「しかし、相変わらず妙な家に住んでおるな。まるで箱ではないか、息苦しい」
そして、白いワンピースの腹のあたりを摘み上げて、
「それにこの着物はなんだ!まとわりついて気持ちが悪い!貴様が着せたのか?」
じろりと阿近をにらみつける。それからしげしげと、阿近の全身を見渡した。
「貴様も妙なものを着ておるな。そうだ、阿蘭陀人の衣装に似ていなくもないな。貴様、いつの間に―」




しゃべり続けるルキアを無視して、阿近はぴしゃりと窓を閉めた。
理由は分からないが、あの小僧は不快だ、と冷静に判断した上での行動だ。
一転して黙りこんだ阿近を、ルキアは不思議そうに覗き込んだ。
「どうした?」
首を傾けると、白い喉の筋がぴんと張るのが見えた。その筋肉の動きすら未だ信じがたく、手も伸ばせず、ただ見つめるしかできない。
「どうしたのだ、阿近」








服装は違う。周りの風景も違う。
だがこの声は、言葉は、動きは、紛れもなくあの日、火事に遭う前のルキアだ。
おずおずと手を伸ばすと、阿近はルキアの顔をそっと両手で包んだ。
手の中で、紫紺の瞳がまっすぐこちらを見ている。その焦点が自分に合っていることに、思わず慟哭しそうになり、阿近はぐっと奥歯を噛み締めた。
かしずく日々が至福であったことは間違いない。
ならば―
あれが至福だったならば、今この瞬間、体中にあふれる慄きを何と表現すれば良いのだろう。








ふ、とルキアの目が優しくなった。そろりと開く、その唇の動きが眩しくて、阿近は思わず目を細めてしまう。
「泣くな、阿近」
ゆっくりと手を伸ばし、ルキアが阿近の短い髪を撫でる。
「誰が泣くか」
「だが泣きそうだ」
数百年ぶりのルキアの視線はあまりにも強く、阿近はおもわずたじろいでしまう。あの頃は、この視線を受けても平然としていたはずだ。
ようやく阿近は、流れた年月の重みを身をもって実感した。
「なぜそのような悲しい顔をする」
「分からん…」
「貴様でも分からんことがあるのだな」
ふんわりと笑うと、記憶の中のルキアと、目の前の存在がかちりと一致する。
「ようやく貴様と話ができるな」
「話?」
「うむ。いろいろ話してくれたではないか。返事はできなかったが」
どくん、と心臓が跳ねた。もしかして、と思ってはいたが、まさか―
「聞こえていたのか」
「聞こえていたよ、全部」
全部、という言葉に力を込めて、ルキアは阿近をじっと見つめた。
何を語って聞かせたか、覚えていない阿近ではない。
語って聞かせたいくつもの言葉を思い出し、柄にもなく、こめかみがかっと熱くなるのを感じた。
くく、といたずらっぽく笑って、ルキアが覗き込む。
「さ、教えてくれ阿近!聞きたいことは山ほどあるぞ!」






目をきらきらと輝かせて乗り出したルキアの身体が、バランスを崩して、ぐらりと傾く。
咄嗟に、両腕を伸ばす。支えた腕に、弾むような、生きた重みがのしかかった。



「…っ」



喉元にせり上がる慟哭を押さえ込むように、阿近は何も言わず、小さな身体をきつく、きつく抱きしめた。




数百年分の、想いを込めて。











淡雪記・阿ルキ編、これにて終幕です。お付き合いいただき、ありがとうございました!

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