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淡雪記・秋(続)





「いっちごーーーーぅう!!一緒に帰ろぉぜぇぇぇぇ!!」
派手な呼び声に振り向くと、廊下の向こうで啓吾が呼んでいた。啓吾の後ろで、水色が携帯をいじっているのが見える。
「おう」
廊下を歩く同級生たちの合間から、軽く手を挙げる。喧騒の中、横からのそりとチャドが現れると、何も言わずにそのまま3人に合流した。




久しぶりに一緒に帰る啓吾は、いつも以上にうきうきと上機嫌だった。
「今日はお姫様、いっるかなーーー?」
「オヒメサマ?」
「啓吾が最近、ご執心の相手のこと」
相変わらず携帯をいじりながら、水色が説明する。啓吾は、もうたまらない、といった感じで体をくねくねさせながら鼻の下を伸ばしきっていた。
「マンションの窓辺にさ、こう、座ってる女の子がいるんだ!それがもうすっごい美人なんだよ!!」
なんだか説明が要領を得なくて、思わず眉間に皴が寄ってしまう。けれど一護のそんな様子にも、啓吾はお構いなしだ。
「カーテン越しにチラッとしか見えないし、呼んでも返事してくれないんだよーぅぅ」
「どう見たって変質者ですからねぇ」
水色が、携帯の画面に視線を落としたまま冷たく言う。そしてぼそりと付け加えた。
「まぁ、確かに美人だけど」




10分ほど歩いたところで、啓吾に連れられて、いつもの帰り道から少しだけ道を外れる。
あまり馴染みのない、アパートやマンションの並ぶ区域。慎重に歩く3人を放って小走りに先に行くと、啓吾はあるマンションの窓を指差した。
「ほら、あそこ」
レースのカーテンが風にふわりと揺れている。その陰に、確かに、人がいた。
黒い髪と白い肌が目を引いた。何か読んでいるのか、考え事をしているのか、視線は下げたままだ。
離れているせいで、それ以上はよく見えない。
―けれども。



次の瞬間、一護は思わず言っていた。
「よう」








声が、聞こえた。
遠い、遠いところから。
水底をゆるりゆるりとたゆたう体に、
躊躇いがちにさざ波を届けるような、
そんな、やさしい声が。




随分と長い間、阿近の声だけを聞いていた。
阿近はいろんなことを話してくれた。周りの風景のこと、街で見た物、世の中で起きていること。
往診の時はろくに口もきかなかったくせに、と腹が立ちながら、なぜか思うように唇が動かないのがもどかしかった。
そうしていつも、よく磨かれた鉄のような、硬く濁りない阿近の声だけを聞いていた。




聞こえた声は、阿近のものとは違った。
例えて言えば、昼と黄昏の合間の、傾き始めた夕日のような。
柔らかく、強いけれども、微かに哀しい、そんな声だ。
呼ばれている、ような気がした。








「え!?何なにナニ???一護あのお姫様の知り合いなの?」
「いや、知らねぇ…かもしれないけど」
わぁわぁと騒ぐ啓吾をよそに、一護はぼんやりとした顔で窓を見上げた。
「どっかで見たことあるような気がすんだよな」
水色とチャドがきょとんとした顔で見ている。がしがしと頭を掻きながら、一護は必死で記憶を辿った。
小学校の同級生?もっと前、幼稚園か?いや誰かに似ている、とかその程度かもしれない。
「駄目だ、思い出せねぇ」
もう一度見上げて、じっと視線を凝らす。
見れば見るほど、知った相手のような気がして目が離せなくなる。
無性に、声が、聞きたくなる。








ふるる、と体の奥が震えた。
手や足が、じんじんと熱くしびれる。
どくんどくんと心臓の音が大きく聞こえる。
なんだか眩しくて、目の奥がきんと痛む。
まるで、生まれ出る赤ん坊みたいだ。
くすりと笑おうとして、喉にひゅうと風が通る。
頬に陽の当たる感触がする。




目の奥に力を入れると、ぼんやりと、小さく人影が見えた。―夕日色の、頭。
こくり、と唾を飲み込むと、喉の奥が生暖かく震える。
楽しいような、怖いような、くすぐったい思い。
けれども、必ず良いことが待っている、という言葉にできない確信。








ルキアはいつか始めてびいろどを吹いたときのように、そっと息を吸うと、ゆっくりと声を出した。




「―よう」










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