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淡雪記・秋(後)





その薬は確かに、ルキアの病の進行を止めはした。
しかし―




同時に、ルキアは人としての営みも止めた。
息はしている。心の臓も動いている。髪も伸びれば、爪も伸びる。
しかし、動かない。
喋りもしなければ、目を動かすこともない。さながら、生きた人形のように。




そうしてしばらく経った頃、阿近は奇妙なことに気が付いた。ルキアが、老いないのだ。
阿近に年月は訪れる。皮膚は衰え、皺ができ、容貌が変わる。
しかし、ルキアはあの日で時が止まったままなのだ。
阿近は愕然とした。
ルキアのために全てを捧げ、片時も離れず世話をし、人目から守り尽くした果てに、やがて自分は死んでゆくのか。
抜け殻のようになってしまったルキアを、ひとり、この世界に残したまま。
阿近は躊躇わなかった。手元に僅かばかり残していた、件の「万能薬」を飲んだ。
共に、在るために。










ルキアを収めた箱を背負い、山の中の道なき道を行く。蔦を払い、沢を横切り、坂を登り、稜線を歩む。
目的地はない。ただ、人目につかない安全な所へ。




日が暮れようかという頃、阿近はようやく山奥に一軒の廃寺を見つけた。
本堂の板戸を開けると、黴臭い湿った空気がぞろりと流れ出す。
阿近は全ての扉と窓を開け放ってから、ようやく背負っていた箱を下ろした。
外に近い場所に、自分の羽織を広げる。扉を開け、丸まったルキアの背にそっと手を当て、抱え上げる。
「今日はここで我慢してくれ」
羽織の上にルキアを下ろし、その背を柱に預けると、傍らに腰を下ろした。
名残の夕日が、わずかに辺りの木々を照らしている。朱や黄金に染まる葉の輝きが、ルキアの白い頬にも淡い色を落として、薄暗い本堂の中でそこだけが光をまとったように眩い。
かさ、かさ、と葉の落ちる音すらもわずらわしくて、阿近はルキアの微かな息遣いも逃さぬよう耳を澄ました。








こうなる前の―
動いていた頃のルキアを、忘れたことはない。今、こうしている間にも、阿近にはルキアの声が聞こえる。
『あれが楓、あれはナナカマド』
阿近に、木々を愛でる趣味はない。しかし植物の好きだったルキアは、往診の合間に、聞きもしないのに逐一教えてみせた。
教えられた名前など覚えていない。ただ、自分に向けられた言葉の響きを、今でも鼓膜が明瞭に覚えている。
「ルキア、紅葉だ」
語りかけても、傍らのルキアはぼんやりと中空を見たままだ。




もうどれだけ年月が経ったのか分からない。
しかし醒めない夢を見ているような、この日々に微塵も後悔はない。
ただ、己とルキアでなぜ薬の効き目が違ったのか、という疑念だけが今でもじくじくと渦巻いている。
阿近の時間も止まった。そして動くことができる。だが、ルキアはそうではない。




時折、ルキアの「眠り」を覚ます薬を探すために、街に出る。
町並みは随分と変わり、便利な道具や乗り物が増えている。人々の服装も変わった。おそらく、相当な年月が流れているだろう。
目の前を走ってゆく路面電車や眩いガス灯を見ながら、その一つ一つを脳裏に刻み、また人気のない場所へと移る。



不遇だと感じたことはない。この日々を、至福だとすら思う。
ルキアの桜色の爪にやすりをかけ、丸い踵を丹念に拭き、髪をすいてあの頃のままに調える。
着物を替え、足の指の間から膝の裏、鳩尾、鎖骨そして耳の裏まで、その白い肌を綿布で拭う。
僅かな息遣いと、今も変わらず動く心の臓の音に、耳を澄ます。
瞳が瞬く、その瞬間の睫毛の揺らぎを恍惚と眺める。
物言わぬ、美しいルキアにかしずく日々。




所有しているのではない。
所有されているのだ。








もうじき、冬が来る。
「西に行くか」
阿近は呟き、巻き煙草に火を点けた。
『そうだな、暖かいところがいい』
「お前は暑いのは苦手だっただろう」
『暑いのは困る、暖かいのがいい』
「我儘め」
『貴様よりマシだ』
ルキアにかからないように、薄く煙を吐く。
江戸にいた頃、鉄面皮と呼ばれていた男は幸せそうに薄く笑うと、傍らの細い肩を壊れ物のように、そっと優しく抱いた。











生物学的な突っ込みどころはこの際無視でお願いします…!!

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