御題目次

淡雪記・秋(前)





まだ日の高い山道を、二人の農夫が歩いていた。これから村へ戻るのだろう、背中には薪を背負っている。
一人が、向かいの山の中腹に目を向けた。そこに、木立に埋もれるようにして、一軒の小さな家が建っている。
いつの頃からか、その家には妙な噂が立ち始め、村の者は誰も近づかなくなった。家があることすら、ずっと忘れていた。
その家から、細い煙が昇っている。
「おい、煙が立ってるぜ」
「まだ人が住んでたんだな」
「誰だろうな」
「うちの爺さんが昔、えらい美人が住んでるのを見たらしいが…」
「俺、見てくる」
「やめとけって」
「美人がいるんだろ?」
「爺さんが子どもの時の話だ!もう生きちゃいねぇよ!生きてても婆さんだ!おい!」
男は薪をがたがたといわせながら、振り向きもせず走って行った。




家の周りは荒れていた。
草木が伸び放題で、かつて家の周りを囲っていたと思われる垣は朽ち果てている。周囲の大木が、家に大きな影を落としている。
萱葺きの屋根は苔むし、とても人が住んでいるとは思えない。辺りには、人を寄せ付けない陰鬱な空気が漂っている。
恐ろしくなって引き返そうとした男は、ふと地面に目を留めた。山道から家の勝手口に至る場所の草が、かろうじて分かるほど、まっすぐに踏み倒されている。人が出入りしているのだ。
その勝手口の戸が、少し開いている。男は踏み倒された草をたどり、足音を忍ばせて家に近づくと、恐る恐る戸を引いた。




小さな家の中は、存外に明るかった。
勝手口を開けると土間があり、その向うに、ただ一間だけの板敷きの部屋があった。部屋の奥の戸が開け放たれ、外の光が入っている。
その部屋の中ほどに、火鉢を前にして、一人の女性が座っている。男は慌てた。
「あ、すいません。お邪魔します」
返事がない。大きな声で言ったはずなのに、こちらを向きもしない。
(耳が聞こえねぇのかな)
男は土間をそっと横切ると、薪を背負ったまま、板の間の縁に腰掛けた。



小さな家だ。板の間に上がらずとも、男の場所から女性の顔が良く見える。
日に当たったことのないような白い肌に、小さな鼻と口がちんまりとのっている。
さらりと流れる髪の間に、長い睫毛と大きな瞳が隠れていた。
黒地の着物に、紅い羽織。その羽織には金や銀で鮮やかな刺繍が施してある。
田舎の女しか見たことのない男には、高貴を通り越して、妖艶としか言いようのない姿だった。
あいつはばあさんしかいないと言ったが、どう見ても年端もいかない少女だ。例の美人の、娘だろうか。



思わずぼんやりと見とれていると、
「何をしている」
突然、背後で声がした。
「ひぃっ!」
慌てて振り向くと、青白い顔をした男が、険しい表情で立っている。上背はない。体も細い。
―が咄嗟に男は、殺される、と感じた。
「出て行け」
短く言われた言葉に、男はあたふたと頷く。そのまま転げるように外へ出ると、村へと駆け下りていった。




ばたばたと去ってゆく男の足音を聞きながら、阿近は呟いた。
「ここももう駄目か」
部屋に上がると、押入れを開け、大きな木の箱を引きずり出す。片面には背負うための背負子がつき、もう片面には観音開きの戸がついている。
阿近はその戸を開き、中を丹念に拭き、近くにあった座布団と薄布団を中に敷き詰めた。
そして火鉢の前のうつろな顔を覗き込み、声をかけた。
「行くぞ、ルキア」












共に在りたい、と願った。
どんな形でもいい、共に在りたい、と欲した。








あの日、火の手が迫る中、阿近は修兵が止めるのも聞かずに屋敷の中へ引き返した。
屋敷の中ほどで、ルキアは煙を大量に吸って倒れていた。
自宅に連れ帰り看病したが、既に体の弱っていたルキアの容態は悪化してゆくだけだった。
どんな薬も効かなかった。一睡もせず看病をする阿近の目の前で、ルキアは日に日に痩せ衰えていった。



―死。



阿近は震えた。避けられない最悪の事態に戦慄し、戸棚の奥に隠していた一つの薬を手に取った。
南蛮船の医師から手に入れたその薬は、蘭学者たちの間で「万能薬」と噂されていたものだ。
どう「万能」なのかは分からない。手渡した医師の、意味深な薄笑いの顔が浮かぶ。
だが、思いつく薬は全て試してしまったのだ。
阿近は茶色の液体を匙にすくうと、祈るように、ゆっくりとルキアの口へと運んだ。











御題目次


Copyright(c) 2011 酩酊の回廊 all rights reserved.