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淡雪記9





風のない、静かな夜だ。
恋次は軒の端から、夜空を見上げた。刀傷のような、薄く細長い月が出ている。
月明かりが少ないので、屋敷の庭木も建物も、真っ黒な塊にしか見えない。手元の行灯がなければ、自分の足元すら見えないだろう。
ぎし、と床をきしませながら、恋次は目の代わりに耳を働かせて、屋敷の中を警戒して回った。






ルキアの部屋の前を通り、屋敷の表へ向かおうとした時だった。
中から、ことん、と物が倒れる音が聞こえた。
ささやかな音だったが、今日のような静かな夜には十分だ。
―まだ起きてんのか、あいつ。
そっと戸口に近寄り、声をかける。
「ルキア?」
返事がない。が、人の気配を感じる。
―誰、だ・・・
ちり、とこめかみに緊張が走る。恋次が呼びかければ、いつも部屋の中から返事がある。今日に限ってそれがない、というのはどうも不自然だ。「来るぞ」と言ったルキアの言葉がふっと脳裏によぎる。左手は自然に、刀の柄へと伸びた。
恋次は戸口に手をかけ、
「入るぞ」
と言うと同時に勢いよく戸を引いた。そして次の瞬間、中の光景に息を飲んだ。
「…てめぇっ…!」




部屋の中に、男がいた。
布団の上に胡坐をかき、膝の上にルキアを横向きに抱いている。
部屋の蝋燭の明かりが、戸口から入る風でたよりなく揺れた。同時に、壁にうつる男の影がゆらりと揺れて、恋次は射すくめられたように動けなくなった。
壁一面に伸びた影は、まるでルキアを飲み込むように大きく、不気味で、暗かった。
男の側に、ルキアの枕が倒れていた。この音が、恋次の聞いた音だったのだろう。




ルキアの顔を覗き込んでいた男は、恋次の姿を鷹揚に見遣ると、悪びれもなくへらりと笑って見せた。
「あら、見つかってしもうた」
「市丸ギン・・・!てめぇどこから!」
ギンは恋次の怒鳴り声などまるで意に介さないように、涼しげな顔を向けると、人差し指で
「あっち」
と庭に面した引き戸を指差す。そして再びルキアの顔を覗き込むと、
「なーんや、つまらんなぁ。これからルキアちゃんと遊ぶとこやったのに」
まるで赤子をあやすように、「なぁ?」などと話しかけている。
―いつの間に…
そう簡単には、入れない造りになっているはずだ。「狐火」の異名はこのことか、と思ったが後の祭りだ。
これから寝るところだったのだろう、ルキアは寝着のままだ。
戸口に背を向けているので、ルキアの表情は見えない。身を硬くしたその細い肩は、ギンの大きな手に掴まれていた。




どたばたと慌ただしい足音がして、恋次の後ろに人がやってきた。恋次の声を聞きつけたのだ。
「阿散井君、何が!?」
ルキアの手をもてあそんでいたギンは、その声を聞くとふと手を止めて、恋次の後ろの人影に目をやった。
そうして、
「あら」
と呟くと、形のよい眉をひょいと上げた。
「イヅルやないの」
「―っ」
思わず、恋次はイヅルを振り返った。ルキアも首をひねってこちらを見る。
「お前、知り合いなのか?」
「…吉良殿?」
イヅルは両手の拳を握り締め、さっと俯く。全てを察したように、ギンは薄笑いを浮かべた。
「あぁ、用心棒してるん?」
イヅルは答えない。押し黙ったままのイヅルにそれぞれが視線を向けたまま、重い沈黙がしばらく流れた。
ジジ、とろうそくの芯が燃える音がする。
イヅルの持つ行灯の火が、不自然なほどぐらぐらと揺れている。
震えているのだ。






沈黙を破ったのは、ギンだった。
「イヅルセンセイが用心棒してはるんなら、しゃーないな」
あっけらかんと言うと、ルキアの頭をゆっくり撫でる。
「今日は、イヅルに免じて帰らせてもらうわ」
ルキアを抱えると、布団の上にそっと座らせる。その手つきが思ったより丁寧で、恋次は意外な気がした。
「ほなまたね、ルキアちゃん」
ひらひらと手を振ると、引き戸を開け、庭へ下りる。そして呆気に取られた3人の前で、不思議な身軽さで庭の塀を飛び越えると、漆黒の闇へと消えていった。








しばらく後。
白哉は薄暗い座敷で、イヅルを見下ろしていた。
「なぜお前があの男を知っている」
知らせを受けた白哉は、ルキアの姿は一瞥しただけで、すぐにイヅルを別室へ呼び出した。
イヅルは畳の上に平伏したまま、額を畳にこすり付けるようにして、声を絞りだす。
「数年前、上方にいた時、一度だけ用心棒をしました。知り合いから、金になるとだけ言われて…盗賊だとは知らなかったのです…!」
横から恋次が口を出した。
「なんで言わなかったんだよ」
「言えるわけないだろう?金に困って、盗賊の片棒を担いだなんて…っ」
白哉はあからさまに、侮蔑の目を向けていた。腰に差した刀の柄に手を置く。かち、と金属が揺れる音がして、イヅルがびくりと肩を震わす。
「不審な素振りがあれば、即刻斬る」
そして恋次に向かい、
「この男の動きを逐一報告するように」
そう言うと、有無を言わせぬまま座敷を後にした。
イヅルの肩をぽん、と叩き、恋次はため息をつく。
「俺だって監視なんてしたくないぜ。悪く思うなよ」
「分かっているよ…」








一人、部屋に残されたルキアは布団の上に座ったまま、思案に暮れていた。
見慣れているはずなのに、人の去ってしまった部屋は急に心細く見えてくる。
「…どういうことだ…?」




今日部屋に侵入するなり、市丸ギンはルキアを正面から見て、ひとこと告げた。
いつもとは違う少し真面目な口調に、それもまたこの男の演技なのかといぶかしく思いながらも、ルキアは思わずその言葉をまっすぐに聞いてしまった。
揺れる燈芯を眺めながら、ぐるぐるとその言葉だけが頭を巡っていた。














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