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淡雪記8





ルキアを乗せた駕籠は、朽木家の屋敷を出ると西へ向かい、本郷を抜け、渋谷へと至った。
馬の蹄の音が、のんびりと後に続く。今日は、恋次とイヅルが護衛としてついていた。




この辺りは江戸と言っても辺境で、江戸八百八町の端に当たる。
土地の豊かな渋谷では、野菜がよく採れた。その野菜を江戸市中に出すために、いくつもの市場が置かれ、市場の近くには問屋や店が立ち並び、通りは賑わっている。
ただ、一歩、道をそれると、諸大名の下屋敷が所々に建っている以外は、のどかな田園風景が広がる。
ルキアは籠の窓から、外の景色を眺めた。
青々と茂る緑が眩しい。晴れた空のとても高い所で、鳶が鳴いている。
なんて気持ちのいい日だろう、と胸いっぱいに空気を吸った。








渋谷川に架かる小さな橋を渡ると、すぐ側にある水車が、ごとりごとりと音を立てて回っている。
そのまま緩い坂を上ってしばらく行った所に、竹林に囲まれた小さな藁葺きの家があった。
その粗末な門の前で、ルキアを乗せた駕籠は止まった。恋次も慣れた様子で馬を下りると、生垣に手綱を結ぶ。
駕籠から降りたルキアは門をくぐると、そのまま縁側へとまっすぐに向かった。そして、開け放たれた屋内に向かって、
「御免!」
貴族の養女らしからぬ挨拶をした。




すぐに、一人の男が現れた。
濃紺の麻の着流しに、黒の細帯を締めている。刀は差していない。一言、二言交わして、ルキアは草履を脱ぐと縁側に上った。
門の近くでその様子を見ていたイヅルが、軽く顎で示す。
「あれ、誰?」
「狩能アシドって奴だ。元は八丁堀だったんだが、早々に隠居してここに住んでるらしい」
「どういう知り合い?」
「さぁな」
「いいのかい?そんな呑気な用心棒で」
「あいつが…ルキアが大丈夫だって言ってんだ。信用するしかねぇだろ」



アシドが八丁堀、つまり十手持ちの与力だったことは恋次も聞いている。そして何かのきっかけで十手を返上したことも、道場の仲間から聞いた。
だが二人がどういう経緯でいつ知り合ったのか、恋次は知らなかった。聞けばルキアは教えてくれるだろうが、知りたくもなかったし、興味もなかった。
そこに男としての意地が潜んでいる、ということは恋次も分かっている。が、やはり、聞きたくないものは聞きたくないのだ。




アシドが湯飲みを二つ持ってくると、二人は縁側で並んで座った。湯飲みを手にしたまま、アシドは門の外に立つイヅルを見ている。
「新しい用心棒か?」
「そうだ。吉良殿という御仁で、上方の出らしい」
「…腕が立ちそうだ」
「分かるか?」
「腕の良し悪しは、たたずまいに出る」
「もう一人、檜佐木殿という御仁も来られた。この方も相当の腕だと思う」
「お前が言うなら間違いないだろう」
湯飲みにじっと目を注いで、ルキアはぽつりと呟いた。
「これでもう、誰も亡くならずに済むのならいいのだが…」
「―ルキア」




風が吹き、波打つように竹林が揺れる。ざわざわとした音を聞くともなしに聞きながら、二人はしばらく無言だった。
竹に囲まれたこの家はとても涼しく、木漏れ日が心地よいのになぜか寂しく、こうして二人で居ても、ふと物思いに入り込んでしまう。
ルキアは振り払うように顔を上げると、笑って見せた。
「貴様が用心棒になってくれたら、安心なのだがな」
今度は、アシドが手元に視線を落とした。
「戻る気はないのか?」
若竹の林は乾いた葉音で辺りを包み、聞きなれているはずなのに、アシドを落ち着かなくさせる。
アシドはようやく言葉を搾り出した。
「すまないが―」
言い終える前に、ルキアが遮る。
「冗談だ、アシド。貴様が強情なのはよく知っている」
それが冗談ではないと分かっているアシドは、ルキアを見たまま、それ以上の言葉が言えなくなる。
「もし、またその腕を生かす気になったらいつでも言ってくれ。兄様がなんとかしてくれるだろう」
「すまないな」
「貴様は人が良すぎるのだ」
「そうか」
「そうだ」








1年前の秋だった。
日本橋から神田にかけての界隈で、夜間に店に押し込んだ上に店の者を皆殺しにする、という強盗が相次いだ。
本石町の両替商、亀井町の船宿、小柳町の蝋燭問屋、と商いの内容も違えば店の大きさも違う、そこそこの金があると見込んだら押し込む、急ぎ働きの強盗だった。
アシドを含む与力、同心たちは連夜、市中の見回りを続けた。




生ぬるい雨の降る、ある夜のことだった。
アシドは数人で、日本橋近くの見回りをしていた。この辺りは夜になれば、蕎麦や甘酒を出す小さな屋台が道々に出るのだが、雨の日はそれも少ない。
さらにこのところ強盗が続いているため、どの店も固く戸締りをし、夜は誰も出歩かなくなってしまった。
人気のない暗がりを、提灯の灯りを頼りに歩く。傘を叩く雨音だけが、闇夜に大仰に響く。



それは唐突だった。
「ぎゃぁぁっ」
闇を震わすようにすさまじい叫び声が聞こえ、アシドは声のした場所に駆けつけた。
雨に消えそうになる提灯の灯りをかざす。
仲間がみな、血溜まりと雨の中に倒れていた。
首筋を一太刀に斬られている。
即死だった。



アシドは同心を辞めた。以来、一人で探索を続けているのだが、犯人は見つかっていない。
町奉行所や火盗改めも犯人探しを続けているし、彼らに任せればいいことは分かっている。
ただ、それではアシドの気が済まなかった。
そのことを、ルキアは「人が良い」と表現したのだろう。






この茅葺きの家に移り住んで以来、人と関わることもすっかり減った。元々、口数の多い方ではなかったが、ここまで無口でもなかった。
「私くらい話し相手に来ないと、貴様は言葉を忘れてしまう」
というのが、ルキアの言い分だった。








「今日は、姉様のお墓参りもせねばならんのだ」
そう言ってルキアが腰を上げると、アシドは少しだけ見上げて、尋ねた。
「また、来てくれるか」
ルキアは頷きかけて、いつも自分が訪ねているばかりなのを思い出し、意地悪く笑った。
「文でも寄こしてくれれば、いつでも来るぞ」
アシドは一瞬、虚をつかれたような顔をした。
「文は…」
苦手だ、と言いかけて、苦笑する。
「考えておく」
「よぉーっく考えるのだぞ」
人差し指を向けて真面目な顔をして見せたルキアは、まるで子どもを叱る母親のようで、アシドは
「あぁ、よくよく考える」
と素直に応えると、穏やかな笑みを浮かべた。





帰りの駕籠の中で、ルキアは愉しみで笑いが止まらなかった。
真面目なアシドのことだ。きっと、時候の挨拶から結び文までついた、生真面目極まりない文をよこしてくるに違いない。








そのアシドが、
「会ひ見て話がしたく候」
と、たった一言の手紙を送りつけてルキアをびっくりさせたのは、それからほんの数日後のことである。











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