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淡雪記6





恋次の周りには、自然と人が集まる。
恋次が台所の井戸で水を飲んでいると、米や野菜を抱えた下女数人がやってきた。それから魚の入った桶を抱えた料理人や、包丁を研ぐ者が現れ、井戸の周りはちょっとした賑わいになった。
寂然とした屋敷の中で、ここだけは人の生活している気配がして、恋次はつい、台所に顔を出してしまう。




そうして他愛もない話をしていると、料理人の佐吉が思い出したように言った。
「そうそう。この間、不忍池で吉良先生をお見かけしましたよ」
「不忍池?」
傍らで米を研いでいた飯炊き女が、興味津々で身を乗り出す。
「で、先生はどんな女と一緒だったんだい?」
「ったく、いけやかましい。そんな感じじゃねぇよ」
「…イヅルはどんな感じでした?」
「こう、甘茶屋の店先の椅子に座ってね、ぼーっと池の方を眺めてござんしたよ」
ぼんやりとしたその佇まいが、目に浮かぶようだった。かばうように、恋次は言った。
「あいつは上方の出だから…」
「あぁどうりで。上品な感じのする方だと思いやしたよ」
「あたしら江戸モンには故郷がないからねぇ。思い出すものがあるんですかねぇ」




不忍池は、琵琶湖を模して作られたと言う。
イヅルはまだ、江戸と上方の暮らしの違いに難儀しているようだし、不忍池を見れば、故郷を思い出すのかもしれない。
ただ、確かにここ数日のイヅルの様子はおかしかった。もともとよく喋るほうではないが、ここのところ、じっと押し黙って考え事をしていることが増えている。
厄介なことにならなきゃいいが、と恋次は顔をしかめた。








恋次は、屋敷の一番奥にある、ルキアの部屋へと向かった。
使用人はもちろん、これまでの用心棒で、ルキアの部屋への出入りを許された者はいない。だが恋次だけは、誰が言うともなく、いつの間にか黙認されていた。
白哉はそれが気に入らないのだろう、屋敷内で恋次の姿を見るたびに、不快そうな視線をよこす。
だが、そんなもの知ったことか、と恋次は開き直っている。こっちはずっと前からルキアのことを知っている。文句があるなら正々堂々と言ってくればいい。



こんこん、と木の引き戸を叩くと、短く返事があった。
「起きているぞ」
ルキアは縁側に腰かけていた。
その後姿が小さくて、恋次はいつも、ひやりとしてしまう。口を開けば強気な言葉があふれてくるルキアだが、その体は、恋次にしてみれば壊れ物のように細くて小さい。
縁側の先には庭がある。小さな庭だが、ルキアの好きな木や花が植えてあった。今は、紫陽花が見ごろだ。
用心棒に対してと同様、ルキアに対しても全く愛想のない白哉だが、あの人なりにルキアのことを大事に思っているのだろう、と恋次は思う。



恋次はその隣に腰掛けながら言った。
「お前と俺が幼馴染だってこと、あの二人に話したぜ」
「別に構わぬ。黙っていても、どうせおツタ殿か誰かがいずれ話すだろう」
そう言って、ルキアはくすくすと笑う。
ルキアの身の回りのことは、奥女中がしてくれる。だが、籠の鳥のように屋敷にこもりきりのルキアを不憫に思った使用人たちは、隙を見ては奥の部屋を訪れ、こっそりと他愛もない話をしていく。
奥女中たちは白哉の指示が行き届いているため、雑談はもちろん、無駄な話など一つもしないのだ。
しゃべり好きのおツタを、ルキアは特に気に入っていた。江戸の噂話から流行りもののこと、食べ物の話に夫の愚痴まで、ツタの話は尽きることがない。使用人に対しても礼儀正しさを失わないルキアを、ツタのほうでも好いていた。
「それに、隠すことでもないしな」
あっけらかんと言ったルキアの言葉が妙にくすぐったくて、恋次は庭に顔をそむけた。








江戸郊外の村で、家族同然に育った。
親もなく、身寄りもない子ども数人が、いつの間にか一緒に寝起きするようになっていた。ルキアは、そこに最後に加わった一人だ。
捨て子の多いあの時代に、子どもたちが肩を寄せ合って暮らすのは、珍しいものではなかった。



少しでもいい生活をしたい、何かそのきっかけがあるかもしれない、と漠然とした期待を抱いて江戸の街に出て、しばらくした時だった。
ルキアが、養子に迎えられることになった。しかも五大貴族の朽木家に。
恋次はツテを頼って必死で道場に通い、追いかけるように朽木邸に向かった。
用心棒になりたいと申し出た時、白哉ははじめそれを拒んだ。だが恋次の方も諦めなかった。
根負けした、と言うより、呆れられたのだろう。しぶしぶ認めてくれた時の当主の顔を、恋次は今でもよく覚えている。






「大川の川開きに、また行きたいなぁ」
縁側に下ろした足をぶらぶらさせながら、ルキアはのんびりと言った。その額を、恋次は人差指で、ちょん、と小突く。
「どうせ、てめぇの目当ては花火より白玉だろ?」
ルキアがにらみ返す。
「貴様だって、鯛焼きのことしか考えておらんだろう」
「だいたいてめぇは、あんな人ごみに行ったらまた迷子になるだろうが」
「あれは貴様が手を離したのがいかんのだ!」
「誰だよ、一人で歩ける、子供扱いするな、とか言ったのはよ」
「子供扱いしたのは本当ではないか!」
そう言って睨みあった次の瞬間、互いに笑いが止まらなくなる。
「っは、相変わらずガキだな、俺ら」
「あぁ子供だな、全く」








だが、次にルキアが発した言葉は硬く緊張していた。
「恋次」
見ると、ルキアが射るような真剣な眼差しで、真っ直ぐ見上げている。
「来る、ぞ」
「―え?」
「おそらく今月中に」
ルキアの声音が低くなる。恋次もつられて声を落とした。
雲が出てきたのだろう、ふっと辺りが暗くなる。
「…どいつだ?」
「分からぬ。ただの予感だが…」



そしてルキアの予感は、これまで外れたことがないのだった。










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