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淡雪記5





「阿散井君」
イヅルに呼び止められて、恋次は台所の戸口に手をかけたまま振り向いた。
先ほどやってきた修兵と交代し、これから自分の長屋に戻ろうとしたところだった。
人気のない台所の上りかまちに、イヅルと修兵は硬い表情で座っている。
「檜佐木先輩とも話したんだけどね、この屋敷はどうも分からないことが多すぎる」
「屋敷の構造も気になるしな」
修兵はあの晩のことを思い出しながら、拳でこんこんと壁を叩いて恋次の顔をうかがった。
「お前、俺たちにまだ話していないことがあるだろ?」
イヅルが続ける。
「どう考えても、三十五人も殺されているというのは尋常じゃない」
恋次の表情が硬くなる。
「一体何のために、誰に殺されたんだ?」
恋次は視線を床に落とし、少し考えて言った。
「―ちょっと、話、つけてきます」




数分後、三人は初日の面通しの時に通された座敷にいた。上座には当主が、先日と変わらぬ硬質な空気を漂わせて座っている。
修兵は緊張した面持ちで、
「―という訳で、この屋敷を守る上でも、これまでの経緯を教えて頂きたいんですが」
と、申し出た。
ややあって、朽木家当主は微かに頷いた。
「なるほど」
そして恋次を見やると、投げるように言う。
「確かに今度の連中は、多少は使えるようだな」
恋次が無言で頭を下げる。白哉は廊下のほうを見て短く呼んだ。
「清家」
近くに控えていたのだろう、ほどなく侍従長が現れる。
「あれを呼べ」
かしこまりました、と清家は頭を下げてその場を辞した。



そう時間はかからずに、清家は戻ってきた。人の足音が二つ、静かに部屋へと近づいてくる。
「お連れしました」
そう言って廊下に正座した清家の隣に、修兵とイヅルは目が釘付けになった。
藤色の振袖をまとった小柄な女性が、流れるような仕草で裾を払うと、正座する。指先を丁寧に揃え、深く頭を下げる。香の香りがふっと漂った。
「初めてお目にかかります、朽木ルキアと申します」
そしてその女性が顔を上げた瞬間、修兵とイヅルははっと息を呑んだ。
澄んだ大きな、びぃどろのような眼。
白磁を思わせる白い肌。
短いけれども、艶やかな黒い髪。
小さな、意思の強そうな口。
派手さはないものの、小さな顔は調和がとれていて惹きつけられ、一目見たら忘れられないだろう。小柄なせいか、まるで人形のようだ。
ルキアを凝視したままの二人を無視して、白哉は抑揚のない声で説明する。
「亡くなった妻の妹だ。今は朽木家の養女として養っている」
修兵とイヅルは言葉をなくしたままだ。白哉は淡々とした口調で続けた。
「どこで目を付けたか知らぬが、数年前から不貞の輩どもがこれを奪おうと屋敷にやってくるようになった」
その言葉に、義妹は申し訳なさそうに目を伏せた。イヅルがようやく言葉を挟む。
「…ですが、これだけのお屋敷に忍び込むことは容易ではないはず。それに、御当主の剣の腕前はかなりのものと伺っております」
白哉は否定しなかった。
「私とて屋敷の全てを守れるわけではない。大挙して押し寄せられれば手にも余る」
大挙して押し寄せる、という言葉に、イヅルと修兵はごくりと唾を飲む。白哉はおもしろくなさそうに続けた。
「中でも特に五月蠅い輩が二人いる。一人は、狐火のギン」
「…っ狐火―」
イヅルは小さく呟いたまま、俯いた。







狐火のギンは、上方では名の知れた盗賊である。
数人で徒党を組み、大店の商家を狙って年に一度ほど盗みを働いていた。上方の生まれのイヅルは、おそらくその名を聞いたことがあるのだろう。
殺しを厭わない盗賊である。いやむしろ、殺しが目的ではないかと思えるほど、襲われた店の有様は凄まじいものだった。
店の主人はもちろん、使用人から下女、年端もいかない子どもまで店の者はみな殺された。首をはねられた者、心の臓を刺された者、内臓のはみ出た者、腕のない者―。
朝になって店が開かないのを不審に思った近所の者が押し入ってみると、そこには地獄絵のような光景が広がっている。惨状を見て吐き気をおぼえる役人も少なくないと言う。
金目の物はもちろん全て奪われている。そして血の海の中にぽつんと、お稲荷の護符が浮かんでいるのである。



大がかりな盗みにもかかわらず、これまで一度も縄にかかったことはない。顔を見た者はみな殺されているのだから、顔を知っている者もいない。どこの店が狙われるかも分からない。
ふっと現れ、ふっと消える。ゆえに「狐火」の異名で恐れられていた。
「なぜ上方の盗人が江戸に?」
そう問うた修兵の言葉に、ルキアが口を開いた。
「…半年ほど前に、親類に会うため京へ上ったのです。その時に姿を見られたのではないかと」
「顔を知っていますか?」
「はい」
「俺も見た。名前のとおり、狐みたいな顔だ」
恋次が付け加えた。








「いま一人は、更木の剣八」
白哉のこの言葉には、二人とも絶句した。
江戸で剣を握る者で、更木の剣八の名前を知らない者はいないだろう。
富める者も貧しい者も入り交じる江戸において、最も貧しく、最も厳しいと言われる地区、更木。
中山道を板橋宿から過ぎて3里ほどのこの町に、一人の男が君臨して数年が経つ。



強い者がいると聞けば道場であろうと大名屋敷であろうと現れ、手合わせを申し入れる、というよりも無理矢理斬り合いを始めてしまうのだと言う。
そのおかげで潰れた道場はゆうに両手を越え、剣に自信のある男たちは、こぞって諸国に逃れてしまった。
こちらは姿を隠すこともなく堂々と往来を歩いているため、修兵もイヅルも姿を見たことがあった。7尺はあるかという大男で、周囲には取り巻きが数人ついて歩いていた。



「では更木剣八は、御当主の腕前を試しに?」
口を開きかけた白哉の隣から、ルキアが口を挟んだ。
「いえ、あやつの狙いもわたくしなのです」
「分不相応にもルキアを寄こせと戯れ言を」
苦々しい表情で白哉が吐き捨てた。
「しかし朽木家の養女と、更木の剣八に何の接点が…?」
ルキアが修兵の目を真っ直ぐに見て答える。修兵は、その瞬間どくりと心臓が跳ね上がるのを感じ、懸命に自分を抑えた。
「更木剣八の子分に、斑目一角と綾瀬川弓親という者がいます。その二人に、道場での姿を見られてしまったらしいのです」
なるほど、と納得しかけて、修兵とイヅルは首を傾げた。
「え?道場??」
「貴女は剣も握るのですか?」
「恥ずかしながら…」
そう言うと、ルキアは頬を赤らめて俯いた。白哉が付け加える。
「剣術は私が教えている。だがそれだけでは足らぬと言うので、知人の道場に通わせていた。更木剣八が来るようになってからは辞めさせたが」
ということはつまり、この養女もそれなりの腕前だということだ。
養子とはいえ、貴族の子女が剣の道を習う、というのは聞いたことがない。修兵とイヅルはまたしても、ルキアを見たまま言葉をなくしてしまった。







「もう良い。下がりなさい」
ルキアは丁寧にお辞儀をすると、清家に伴われて部屋を去る。
「江戸を離れようと考えたことはないのですか」
最もな疑問を口にした修兵を、白哉は冷たく一瞥した。
「我が朽木家は代々、朝廷と将軍家をお守りすることを掟としてきた。此処は江戸城の鬼門、丑寅に当たる。災厄を防ぐためにも、我が一族がこの土地を離れることはならぬ」
つまり、家の掟のためには多少の犠牲はやむを得ない、ということだ。
三十五人が、多少と言えるかどうかは別として。
「兄らはこの屋敷を守ればよい」
話は終わった、とでも言うように、白哉は立ち上がると部屋を出てゆく。




コン、と獅子脅しの音が響いて、静寂が辺りを包む。
残された3人は両手の拳を握り締めたまま、じっとその場から動けない。
月に6両、という報酬は、もはやどうでもよくなっていた。











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