御題目次

淡雪記4





その日の夜。
修兵は恋次と共に、屋敷に泊まり込んで番をした。
イヅルは今夜は自分の長屋に戻り、明日の朝やってくることになっている。
正面と裏の門には門番が交代で立っているし、屋敷の外には辻番所が2つある。何か事が起きれば、彼らが鐘を叩いて知らせることになっていた。



恋次が長屋で仮眠を取る間、修兵は白壁に沿って屋敷内を歩いた。
十六夜の月がきれいな晩だった。
青白く照らされた屋敷や庭は、昼とはまた違った幽玄の趣があり、絵画や歌といったとはおよそ縁のない修兵でも、思わず見とれてしまう。




水を飲もうと台所へ行くと、泊り込みの下男と女中たちが、シシャモを炙りながら茶碗酒を呑んでいるところだった。
突然現れた修兵に、使用人たちが気まずそうに笑う。修兵はいくらかほっとし、声をかけた。
「俺も混ぜてもらっていいかな」
「お、先生もイケる口ですかい?」
酒の入った使用人たちの口は軽い。修兵は冷酒をちびりちびりと呑みながら、彼らの話に加わった。
「お気をつけ下せぇよ、旦那」
「そうそう、ここは出るからねぇ」
「出る?」
「足の無ぇ、“恨めしやぁ”ですよ」
「お聞きなすったでしょ、もう何十人もここで死んじまってんだ」
「夜になるとね、廊下の端なんかに、ぼーっと立ってるって噂でござんすよ」
「そりゃ浮かばれねぇさ、この間のお侍さんなんか、こう、首をばっさり」
肩をすくめる下男たちの言葉に、修兵は苦笑した。
「四大貴族ともなると、さすがに大変だな」
その言葉に、使用人たち意味ありげに顔を見合わせる。
「貴族っていうか…ねぇ」
「ねぇ」
「そりゃ、てめぇみてぇな箸にも棒にも引っかからねぇ婆ぁは安心だろうよ」
「こっちから仏様にお願いしてこの顔にしてもらったんだよっ」
「なんでぇ。ってぇと仏様お墨付きの醜女かい」
「あんな目に遭うなら、醜女のほうがよっぽどマシってもんさ」
「ちげぇねぇ」
「桑原桑原」
「なんまんだぶなんまんだぶ」




下男たちが下部屋に寝に戻ると、修兵は台所から厠へと静かに歩いた。―その時。





きし。





壁の向こうで、微かな物音がする。
修兵が足を止めると同時にその物音も止まり、じっと息を殺す気配があった。





―人の気配。





昼間、清家に聞いた屋敷の構造を思い出す。
この壁の向こうは、物置になっているということではなかったか。物置に誰か入り込んでいるというのか。だとすれば、用心棒として放っておくわけにはいかない。



修兵は腰を落としながら、じりじりと右足を踏み出した。左手は既に鯉口を切り、右手は柄に手をかけている。
りり、とコオロギが鳴いた。



一間四方にしか聞こえないような、低い声で問う。
「誰だ」
しばらく、耳の痛くなるような静寂が続いた。しかし、
「そこにいるのは誰だ」
と再び修兵が問うと、答えるかのように、壁の向こうで床のきしむ音がする。
その音はゆっくりと遠ざかり、かたん、と戸の閉まるようなわずかな音がした後は、こおろぎの鳴き声だけが辺りを包んだ。




気配が遠ざかったの確認し、刀を元に戻すと、軽く息をつく。
―足の生えた幽霊、か?
修兵は廊下の窓から、青白い月を見上げた。




思った以上に厄介な仕事かもしれない、とふと思った。













御題目次


Copyright(c) 2010 酩酊の回廊 all rights reserved.