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淡雪記3





江戸幕府の将軍は、言うまでもなく徳川家である。
その徳川家と近縁にあたる大名家は幾つもあるが、その中でも特に高貴とされる四つの名家がある。
戦国時代に武勲を挙げた大名家とは違い、京の朝廷の血も引くことから、その名家は俗に、四大貴族と言われている。
ここは四大貴族の一つ、朽木家の屋敷だ。3人がこれから会うのは、朽木家の現在の当主、朽木白哉だ。




こん、と獅子脅しの澄んだ音が響く。床の間には掛け軸と花が飾られ、飾り棚には江戸ではまだ珍しい硝子の器が据えられている。
ほぅ、と溜息をついたまま、修兵とイヅルは部屋を見渡した。
今まで足を踏み入れたことのないような、豪奢で品のある空間だ。平服でいい、と恋次が言うから、とりあえず袴だけは着けてきたが、これでは裃を着けなければ場にそぐわない。
衣擦れの音がして、三人は慌てて平伏した。
上座に人が座る気配がして、恋次が口を開く。
「先日お話した二人を、連れてきました」
貴族、という俗称からは想像もつかないような毅然とした声が頭上から降る。
「顔を上げよ」
恐る恐る顔を上げて、修兵とイヅルは息を呑んだ。
歌舞伎の二枚目、いや女形でもこんなに整った顔立ちはいないだろう。切れ長の目、すらりとした鼻立ち、細面の輪郭、薄い唇。
長い黒髪を無造作に後ろに流しているが、それすらも気品を漂わせるための一つの作為に思える。



だがそれ以上に二人を圧倒したのは、目の前の男がまとう冷徹な空気だった。
神楽坂の道場の師範も、ひとたび剣を握れば厳しい雰囲気をまとうが、その気迫とも違う。何が違うのか、あえて表現するとしたらその温度だろう。―冷たいのだ。



「名を申せ」
「檜佐木修兵です」
「吉良イヅルと申します」
白哉はすぐに本題に入った。
「恋次から話は聞いていよう。三人でこの屋敷の警備に当たってもらう」
「はい」
「報酬は月に五両。ただし警備の中で手傷を負ってもこちらは関知せぬ」
「はい」
「不明な点は恋次と清家に聞くように」
それだけを言うと、朽木家当主は静かに腰を上げ、部屋を去った。足音が遠ざかったのを確認して、イヅルが口を開く。
「…随分とあっけないんだね」
「腕前を見せろとか言われるもんだと思ってたぜ」
恋次は遠くを見たまま、ぽつりと呟いた。
「あの人は、俺たちがこの屋敷を守ってりゃそれでいいんだよ」




屋敷の案内には時間がかかった。敷地があまりにも広大で、部屋の数となると、いったい幾つあったのかも分からない。
ようやく一周して恋次の控え部屋に着くなり、修兵と二人はどさりと足を投げ出して座った。
「しっかし広い屋敷だね」
「お前、大変だったなぁ。ずっと一人でこの屋敷の用心棒をやってんだろう?」
用心棒の控えとなる長屋は、屋敷の裏門横にあった。
一人6畳ほどの部屋があてがわれ、部屋には布団一式と長火鉢だけが置いてある。普段暮らしている長屋と大きさは変わらないが、縁側に当たる部分は裏門の壁になっており、庭はなかった。
その壁には格子窓があり、長屋の中から裏門の外が見えるようになっている。裏門からそう遠くない所に根津権現があるはずだが、その喧騒もここまでは届かないようだ。




「いや、用心棒は常に三人くらいいますよ。正確には、いた、ですけど」
恋次の何気ない言葉に、二人は顔を上げた。
「いた?」
「前の二人は、一昨日殺されました」
夕暮れ時の風が、ふわりと頬を撫でる。しばらくの沈黙の後、イヅルが口を開いた。
「…参考までに聞いておいていいかな。今まで殺された用心棒は何人?」
「俺が知ってるのは、ここ数年の数だけだ。俺が来る前のことは知らないが…」




  「三十五人」




格子窓越しに、道を挟んで向かい側に大きな寺が建っているのが見えた。
どこからともなく抹香の香りが漂い、木魚を叩く音が規則正しく響く。修兵とは絶句したまま、その黒光りする大きな屋根を呆然と見つめた。










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