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淡雪記10





もう日が沈む時刻だった。
修兵は自分の足元に濃く、長く伸びる影を見ながら、朽木邸の正門へと向かった。門番に会って、何か変わったことがないか尋ねるのも、用心棒の大事な仕事だ。




正門までやってきてふと見ると、白衣を着た男が、茜色に染まる玄関でわらじを脱いでいた。
「阿近じゃねぇか!」
声をかけて近づくと、男はあからさまに嫌な顔をした。構わず修兵は続ける。
「お前、こんな所で何してんだよ」
「お前こそ何をしてるんだ」
不機嫌そのままの声が返ってきたが、修兵は気にしなかった。だいたい、この男の機嫌のいいところなど見たことがない。
「用心棒に雇われたんだ」
「・・・ちっ」
「何だよ、その舌打ちは。何してんだって聞いてるだろ」
「仕事に決まっている」
「…仕事?誰か、具合でも悪いのか?」
阿近は答えずに玄関を上がると、傍らに置いていた大きな木箱を抱えた。そして修兵に背を向けて、さっさと屋敷の中へ進んで行く。
「おい!阿近!」
能面のように冷たい顔をした男は、何も聞こえなかったかのように、夕日の差す廊下を曲がって行った。








週に1度の往診は、いつもどおりに始まった。
目を覗き、口の中を仔細に見て、首の筋に触れ、次に手首を取って脈を診る。
肌着代わりの単衣の上から、背中にそっと木の筒を当て、心の臓の音を聴く。背骨をひとつひとつ、ゆっくりと指先で確かめてゆく。
言葉もなく静かな部屋の中で、ルキアは時折庭に目をやりながら、阿近の動きを見るともなしに眺めていた。
庭に面した戸は開け放たれ、傾いた西日がルキアの膝元まで伸びていた。




阿近の動きにはいつも無駄がない。が、その手つきが、いつもより荒いことにルキアは気が付いた。
「どうした?いつにも増して不機嫌だな」
阿近は背中に当てていた手を止めることなく、面白くなさそうに言った。
「そこで黒髪の馬鹿侍に会った」
「檜佐木殿か?知り合いなのか?」
「知らん、あんな奴」
言い捨てるとルキアの正面に座りなおし、顎をつかむと、ぐいと上向かせた。
「目方が少し減ったな。ちゃんと食ってるのか?」
「私は昔から、たくさん食べても目方が増えないのだ」



阿近はしばらく、疑い深くルキアの目を覗き込んでいた。
が、何かを言いかけてふっと口をつぐみ、ついと目を反らした。そのままルキアの目の前で、木箱を開ける。いくつもの粉薬を取り出し、薬鉢で混ぜる。まるで儀式のようなその動作を、ルキアはじっと見つめた。



少しして、阿近はルキアの前に小さな盆を押し出した。盆の上には、白い紙包みが幾つも載っている。
「今週の薬だ。忘れずに飲めよ」
「もっと甘い薬はないのか?貴様の薬はひどく苦いぞ」
「文句を言うな」
阿近はルキアの顔を見ようともせず、そのまま片づけを始める。







しかしルキアは、盆の上に乗せられたその白い包みが、いつもより膨らんでいるのを見逃さなかった。
―薬が、増えている。
ことん、ことん、と阿近が調薬の器具をかたづける音が響く。その横顔を見つめてみても、余計なものなど一つも纏わないこの男の顔からは、何も読み取れない。



「阿近」
「なんだ」
阿近は視線を上げない。
ルキアは、薄く息を吸って、吐く息と同時にそっと言った。




「私は死ぬのだろう?」




言い終わった時には、あごを強く掴まれていた。阿近の細い眼が、冷たく見下ろしている。
「馬鹿なことを言うな」
「ごまかすな、阿近。自分のことは自分が一番よくわかる」




だいぶ前から感じていたことだった。
薬はどんどん増えてゆくのに、一向に体調がよくなる気配がない。
ゆっくりと、だけど確実に、以前よりも体に力が入らなくなってきている。
このままもう目覚めることはないかもしれない、と思いながら、眠りにつくことも少なくない。
そもそも貴族とはいえ、御典医である阿近が往診に来ていること自体、おかしい。




「私は、もう長くはないのだろう?」
「戯言はそれだけか?」
阿近は眉間の皺を深くすると、一気にまくし立てた。
「何のために俺が来ていると思ってるんだ!余計なことを考える暇があったら、薬を飲み、飯を食って、病を治すことを考えろ!」
怒鳴られても、ルキアの顔は涼しかった。
「貴様がそこまで激するのは初めてだな、阿近」
硝子に似た紫紺の瞳が、見透かすように阿近を見上げていた。
「図星なのだな」
阿近のこめかみが引きつる。
日が完全に沈んでしまったのだろう、部屋の中はいつの間にか薄暗くなっていた。二人の間の静寂が、闇を少しだけ、濃くする。







ルキアは幼子をなだめるように、目の前の男の頬を撫でた。
「阿近」
阿近の細い瞳からは、先ほどの激昂が消えていた。
代わりに、この男には珍しく、脆く淡い光が揺らいでいるのが分かった。
何を考えているのか分からない、と言われる阿近だが、ルキアにしてみれば、この男ほど分かりやすい男はいない、と思う。
単純なのだ。他の人間には理解できないくらいに。








「お前は死なない」
低く硬い声が、夕闇に溶け込むように、静かに響く。
「いいか、お前は死なない」
「わかった」
柔らかく微笑んだルキアを前に、阿近は苛立たしげに首を振った。夕暮れで濃くなった陰影が、阿近の造作の薄い顔を、より厳しく見せている。
「いや、お前はわかっていない。お前は死なないんだ」
ルキアを見下ろしたまま、なおも続ける。
「お前は死なない。お前は、」
「阿近」
遮るように、ルキアは名を呼んだ。
放っておけば、阿近は何度でもその言葉を言い続けるだろう。ルキアが、心底から納得したという確証が得られるまで。
それは、既に覚悟を決めたルキアにしてみれば、とても悲しいことだ。



ルキアは白衣の胸にすとんと寄りかかり、呟いた。
「有難う、阿近」




庭で百舌鳥の鋭い声が響く。
阿近がルキアの細い肩を抱くことはなかった。
当代随一の医師と呼ばれる白皙の男は、爪が白くなるほどに強く、己の拳を握り締めていた。











目方=体重
御典医=将軍や武家のお抱え医師のこと。ここでは将軍のつもりです。

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