御題目次

淡雪記1





「本当に雇ってくれるんだろうなぁ、恋次」
雑踏の中を歩きながら、その男は、自分の前を歩く背の高い男に話しかけた。
「大丈夫っスよ檜佐木先輩、話は通してありますから」
恋次は、振り向いてぞんざいに答える。
そして「あぁ」とも「へぇ」ともつかない生返事をした檜佐木修兵の視線が、道端の和菓子屋の若い娘を追いかけているのを知って、呆れた表情を浮かべた。修兵の隣を歩くもう一人の男が、そんな二人の様子を見て苦笑する。




ごったがえす雑踏の中でも、恋次の姿はひときわ目立った。
体格がいい、というのも一つの理由だが、なによりもその風貌が派手だ。高く結い上げた髪は紅く、恋次が歩くたびに弾けるように揺れる。腕や首筋、額には不思議な文様の刺青が施され、聞けばかなり有名な彫り物師の仕事らしい。
3人は浅草御門近くの蕎麦屋で待ち合わせた。そこから神田川に沿って河岸道を西に歩き、上野・寛永寺近くまで歩いて来たのだ。
この辺りは右手に小さな寺が並び、左手には大きな旗本屋敷から町家、様々な店が並んでいる。通りをさらにもう一つ左に行くと、そこには諸大名の上屋敷と、その家臣の住む長屋が並んでおり、いつもこの辺りは、例えば浅草や日本橋に比べると落ち着いた雰囲気のある地域だ。
だが今日は、少し先の下谷広小路からあふれ出た人の波が、この辺りまで伸びていた。その下谷広小路は上野の山、寛永寺へと向かう人通りでごったがえしている。参拝客を狙った出店も立ち並び、呼び込みの声も賑やかだ。今日は寛永寺で大きな行事が行われているのだろう。
江戸が開かれて二百余年。
江戸の町は長く蕾だった花が咲き誇るように、まさに全盛の時を迎えていた。






3人は、参拝客の流れを横切るようにして下谷広小路を渡った。
目の前に、不忍池の水面が眩しく広がる。池の周囲には松や桜の巨木が並び、風にそよぐ木陰が心地いい。池の中ほどには弁天島がぽっかりと浮かび、弁天堂の瓦が眩しく光っている。
「相変わらず、いい眺めだね」
もう一人の男が溜息混じりに呟く。名前を吉良イヅルと言い、先ほどまで神経質そうな視線を辺りに配っていたが、不忍池にたどり着いて、ようやくほっとした様子を見せた。
すかさず修兵がからかった。
「お前、ここに来たことあるのかよ?」
この付近は池之端仲町といい、湯島天神や寛永寺といった観光地に近いため、賑わいのある町だ。
大通り沿いには大きな商家も多いが、不忍池に面した通りには洒落た造りの町家が軒を連ねている。だがそれらの家々の大半は、実は出合茶屋であることを3人は知っている。出合茶屋とは、男女が逢引をするための座敷を貸す、店のことだ。
イヅルはむっとした様子で言い返した。
「春に桜を見に来たんですよ」
「へぇ」
不忍池は桜の名所としても知られている。なおもニヤニヤと笑ったままの修兵を無視して、イヅルは話題を変えた。
「そういえば聞き忘れていたけど、用心棒の報酬はどれくらい?」
恋次はそっけなく言う。
「月に五両」
一瞬の間のあと、修兵とイヅルは同時に声を上げた。



「「っっご、五両ぉぉっっ」」



近くの茶店で接客をしていた老婆と娘が、ぎょっとした様子で振り向いた。二人は慌てて小声になる。
「本当かよ、それ」
「あぁ」
「一年で六十両か…。さすが四大貴族、桁が違うね」



当時の江戸では、十両あれば一年暮らしていくことができた。
その六倍の報酬が出るとなれば、それはもう破格の額である。しかも飯も出る、となれば、しがない長屋住まいの浪人にとって、これ以上の待遇はない。
しかし恋次は眉間に皺を寄せると、不機嫌そうに付け加えた。
「ただし、殺されても怪我しても手当ては出ないっスよ」
「いや、そんだけもらえれば十分だろ」
早くも上機嫌で算段を始めた修兵の隣で、イヅルは足を止めて少し考え込み、独り言のように呟いた。
「でも金額がそれだけ大きいということは、それなりの理由があるんじゃないかな」
修兵も足を止めると、細い目でちらりと恋次を見た。
「よほど強い奴に狙われているのか、よほど大勢の奴に狙われているのか」
「あるいはその両方か」



道は不忍池を離れ、本郷へと向かうゆるい坂になった。両側には白壁が続き、大名の上屋敷や中屋敷の並ぶ閑静な区画に入っている。ここまで来ると人通りは少なくなり、壁沿いには小川が流れ、どこかで涼しげにコオロギが鳴いている。
「―それは、当主に直接聞いてくれ」
恋次は二人の視線から逃れるように身を翻すと、先へと足を進めた。










かなり長くなる予定ですが、どうぞお付き合い下さい…!

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