御題目次

地平線を跨ごう





暑さは嫌いじゃないが、今日だけは勘弁して欲しかった。



恋次は、数日続いた虚討伐で疲れた身体をなんとか奮い立たせて、精霊廷の中を歩いていた。
強い日差しが石畳にはね返り、じりじりと疲れを増幅させる。体はすでにだるく、頭は眠く、許されるものなら道端でも構わないから寝てしまいたかった。このままだと、自分の部屋まで帰りつけるかどうかも怪しい。
日陰を探して昼寝をするか、いやとりあえず隊舎に戻って報告するのが先か、でもまぁ報告なんて形式的なものだから省いてもいいか、あぁだけどうちの隊長はそういうことはきちんとさせたい人だから、とぐるぐると考えていると、ぽん、と肩を叩かれた。振り向くと、学院時代の同期がにこにこと笑いながら立っている。
「おう、恋次。今日非番か?」
「いーや、いま現世から帰ってきたとこだ」
「相変わらず忙しいな、そっちは。お疲れさん」
「おーう」
ひらひらと手を振り、隊舎へと向かおうとした恋次の視線の端に、ふと小さな人影が映った。
建物の陰になってよく見えないが、誰かと話をしているのか、少し上を向いている。恋次の位置からは後姿しか見えず、その表情までは分からない。



その瞬間、ふっと、身体が軽くなる。
重く圧し掛かっていた疲れが、少しだけ和らいだ気がした。


疲れているのも忘れて、その方向に足を踏み出す。
「ル…」
しかしルキアの名前を呼ぼうとして、恋次は思いとどまった。
ルキアの傍らには、男の姿があった。
歴代最強と呼ばれる朽木家当主。
四番隊隊長。
ルキアの義兄―朽木白哉。



その佇まいは常に一振りの刃のように、静かで冷たく、周囲に鋭い威圧を放っている。
その姿を見るたびに、恋次は自分には立ち入ることのできない世界があり、及ばない存在があることを知る。そしてその養子となったルキアもまた、恋次にとって立ち入ることのできない世界に住む、一人の令嬢となったのだ。



―ルキア。



言おうとしていた言葉を、心の中で呟く。
声に出せなかった言葉は頭の中で反響し、その想いとともに膨らんで、気がつけばただ一つの名前だけが、恋次の身体の中にぽっかりと残る。
―ルキア。ルキア。


想像もしなかったんだ。
お前の名前を呼ぶことが、こんなに難しい日がくるなんて。
あんなに簡単に、何も考えず、来る日も来る日も呼び続けていたお前の名前を、口にすらできない日がくるなんて。








暑い空気をゆらゆらと掻き混ぜるだけの風は、日が地平の向こうに沈む頃には、ぴたりと止んでしまった。
ルキアは職務を終え、隊舎から朽木家の屋敷へと帰る途中だった。
夏の盛りの夕暮れは紅く、胸を打つその色は誰かのことを思い出させ、どこか寂しい思いがこみ上げてくる。積み重なる思いを振り切るように歩けば、屋敷へと戻るその足も、いつしか足早になっていた。
うだるような思いで角を曲がった時、視線の先に、夕暮れのように真っ赤な頭をした青年の姿があった。ちらちらと揺れるその髪は、幼い頃に一度だけ見たことのある、花火のようにも見える。



くす、と笑いがこみ上げてくる。
その瞬間、ほんの少し寂しさが消えた。


「れ…」
だが駆け寄ろうとして、ルキアは足を止めた。
恋次は、男の仲間数人と笑顔で歩いていたのだった。
小突いたり、小突かれたり、笑ったり、怒ったり。
そうしている恋次の顔は本当に楽しそうで、あの頃のようで、屈託が無い。
今の自分からは、一番遠い笑顔だ。



楽しそうな声が、少しずつ遠ざかってゆく。
これから仲間と一緒に飲みに行くのかもしれない。声をかければ、きっと恋次は振り向くだろう。そして心配そうな目で見るのだろう。屋敷まで送ると言い出すかもしれない。あやつは頑固で言い出したらきかないから、飲みに行くのを止めるとも言いかねない。
今の自分に、恋次の楽しみを邪魔する権利は、ない。



―恋次。



想像もできなかった。
この数歩の距離が、なんて遠いのだろう。
手を繋ぎ、一緒に走り、笑い、ふざけあった頃はすぐそばにあったその手が、声が、どんどんと離れていってしまう。
その手の大きさも温もりも、いつだって思い出すことができるのに、望んだその手は遥か遠くに行ってしまったのだ。








そう―例えて言えば、此処は日のない闇夜の世界
私たちは暗闇の中で彷徨い、すれ違い、そして互いの居場所を見失う
僅かな光を見つけ出した時には既に遅く、互いは互いの手の届かない、遥か遥か遠くにいた




地平の境に消えてゆく、あのまばゆい太陽を
追うのは阿呆か、それとも道化か


けれど私たちは、その一歩を踏み出す日が近いことを、体の奥で感じている。








こころは、ずっと、つながっているのだから。











恋次お誕生日祝いです。なのに萌えもハッピーエンドもなくてすみません…

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