御題目次

僕には存在する意味がないから





みゃあ、と自分が鳴けば彼女が振り向いてくれることは分かっている。
だけど小さな背中を目にして、グリムジョーは声をかけることもできず座り込むしかなかった。


公園のベンチにぽつんと座るルキアの背中はあまりにも小さくて、今にも風景に溶け込んでしまいそうだ。子供たちの喧騒もまるで別世界から聞こえてくるように遠い。夕日が、ゆっくりと傾いていく。



ルキアは長いことそうして座っていた。
学校から帰る時間になっても姿が見えないので、気になったグリムジョーはぶらぶらと探しに出たのだ。自慢の嗅覚と身体能力を活かし、ルキアの登下校の道を辿り、見つけたのがここだった。






野良猫だったグリムジョーがルキアに拾われて、1ヶ月が経つ。


しなやかな筋肉と鋭い爪をもつグリムジョーは、猫としてはそう身体が大きくないものの、その肉体には押さえきれないほどの力と凶暴な精神を備えている。
その力と性格で近隣の猫のボスとして君臨し、思うままに暴れまわる生活は気分のいいものだった。
しかし変化は突然訪れた。
磐石だと思っていたその地位が、音を立てて崩れたのだ。
積木の山が崩れるように、一度ぐらついた地位が地に落ちるまでそう時間はかからなかった。



グリムジョーは街を追われた。



ふらふらとさ迷い歩き、気がついた時には雑居ビルのゴミ捨て場にボロきれ同然で倒れこんでいた。雨が降っていた。
1ヶ月前からろくに食べていなかった。人間の残飯をあさることはプライドが許さない。少しずつ身体が冷えてゆくのを感じながら、あぁ、もう死ぬのかもしれねぇな、とぼんやりと思った。


その時、ぱしゃ、とぬかるみを踏む音がした。人間だ。
その足音はグリムジョーの横を通ろうとしたところで、ふと止まった。以前は、近づく人間をその爪で散々痛めつけてきたが、今のグリムジョーにそんな気力はない。それでもうっすらと目を開けると、紫がかった瞳が悲しげに見つめていた。
ふわり、と身体が浮く感じがして、全身が何か乾いた布で包まれた。突然の心地よい温かさに、グリムジョーはそのまま引きずり込まれるように眠ってしまった。






ルキアは拾ってきた猫をまずぬるま湯につけて洗ってやった。柔らかなタオルで丁寧に身体を拭き、慎重にドライヤーを当てると、黒だと思っていた毛並みが艶やかな灰青に光る。うっすらと開いた目は透き通るようなアイスブルーで、ルキアはそのあまりもの綺麗さに、うっかり歓声をあげそうになり、慌てて自分の口を押さえた。
横たわる鼻先にホットミルクの入った小皿を置くと、むくりと起き上がり、恐る恐る舐める。
アイスブルーの瞳が、チラチラと窺うようにルキアを見上げる。小皿の横に煮干を置いてみると、がつがつとかじり始めた。よほど空腹だったのだろう、今度はルキアの様子を窺うことも忘れている。
「好きなだけ食べていいのだぞ」
そう言って笑いかけると、猫は一瞬動きを止め、またがつがつとむさぼった。




煮干を何匹も平らげた後、猫はようやく満足したのかゆったりと毛づくろいを始めた。傍らで見守るルキアには決して近づかない。尊大ともいえる態度には、近づくな、という威圧感すら漂わせる。
熱心に体中を舐める猫に、ルキアは尋ねた。
「お前、名前は?」
猫が答えるはずもない。しかし警戒心の強いしぐさから、きっと野良猫だったのだろう、とルキアは考えた。
「無ければ私がつけてやろう。そうだな…」
ルキアはしばらく天井を見つめ、そして、まるで闇夜の猫のような澄んだ声で言った。




「グリムジョー。グリムジョー・ジャガージャック」




ぴたりと毛づくろいを止めた猫に向かって、ルキアは告げる。
「これが今日からお前の名前だ」
猫はじっとルキアを見つめたまま、動かない。アイスプルーの鋭い瞳が、射るようにルキアを見ている。ぴんと立った両耳が、少し、震えた。
ルキアはその目を真っ直ぐに見返しながら、ふわりと笑った。
「お前にふさわしい、強そうな名前だろう?」




―グリムジョー・ジャガージャック。




これが俺の名前だ。
野良としてさまよい歩いてきた俺に付けられた、生まれて初めての名前だ。
その時俺は決めた。
これからは、この爪と牙をこの人のために使おう、と。








みゃあ、と自分の声が聞こえたら、ルキアは振り向くだろう。
目に溜まった涙をぬぐい、赤く腫れた目で「どうしたのだ?グリムジョー」と笑いながら。
そんな痛々しいルキアを見るのがグリムジョーは一番嫌いだ。
悲しむルキアを見ると、悔しくて、歯がゆくて、叫びたくなる。




俺には鋭い爪がある。
この牙は骨だって噛み砕くし、鋼のような毛並みもあるぜ。
でかい敵も怖くはない。


だから。



だからルキア、お前を泣かせた相手を教えろ。
今すぐそいつを切り裂きに行ってやる。






音もなくベンチの背に飛び乗ると、ルキアは少しだけ驚いてグリムジョーを見つめた。
「グリムジョー、お前どうして…」
ルキアの顔に頬ずりをすると、白い肌は少しだけひんやりとしていて、柔らかくて、気持ちがいい。ぺろ、と頬を舐める。涙の跡はしょっぱくて、ほんの少し、苦い。
「…くすぐったいな」
ルキアはグリムジョーの身体を撫でながら、くぐもった声で、ふふ、と笑う。




そうだ。お前は笑っていればいい。
人間たちの理屈なんざ、俺には存在する意味がない。
どいつもこいつもぶっ殺してやる。








ルキアが笑う。花のように。


それが俺の全て。










パラレルです。苦手な方はすみません…

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