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一番になることは素晴らしき、そして悲しき





今日行く、と決めた瞬間から、ルキアは落ち着きをなくしてしまった。
机についたかと思えば立ちあがり、書棚に向かっては目的の本を見失い、手に持つ書類の束はばさばさと取りこぼした。仕事は何も手につかなかった。時々手洗いに行っては、念入りに髪を整え、死覇装の裾を直した。懸命に取り繕うとしても隠しようはなく、普段は冷静なルキアがそわそわと隊舎の中を動く様子を、隊員たちは不思議な目で見ていた。



そうこうするうちに、時間はどんどん過ぎていく。日は傾いて、それでも強い初夏の西日は隊舎の廊下をじりじりと照らす。
「―行かなければ…」
小さな包みを目の前にし、ふぅ、と小さく息を吐くと、もやもやとした歯がゆさが言葉と一緒に零れ落ちた。



包みの中には、現世の本が入っている。尸魂界に戻って数ヶ月。その本をどうしてももう一度読みたかったルキアは、それを保管している技術開発局に掛け合い、借りてきたのだった。そして、その返却期限が今日だった。
「…よし」
ルキアは意を決し、大きく息をつき、口を硬く結んで立ち上がると、迷いのない足取りで技術開発局へと向かった。









隊舎からここまで、どうやって歩いてきたかは覚えていない。気づくと、ルキアは技術開発局電波計測研究科の建物の中にいた。
不安と期待とで、ルキアの内面はざわざわと波を打つように落ち着かない。がらんとした廊下を進むにつれてその波は次第に大きくなり、角を曲がる頃には足元をすくう横波となり、目的の扉の前に立った時には、ルキアを飲み込む大きなうねりとなった。包みを握った手には、じわりと汗が滲む。胸を打つ鼓動が、辺りにまで反響しそうだ。






目を閉じ、胸に手を当て、深くゆっくりと息を吸う。
―大丈夫。今日は大丈夫だ。
この間は一言も口をきくことができなかった。でも今日は大丈夫だ。あんな無様なことにはならない。






だが扉を開けた瞬間、ルキアの心臓は跳ね上がった。






用意していた言葉は一瞬で消え、頭の中が真っ白になる。息がつまり、しばらくは呼吸をするのも忘れた。もともと白い肌からは血の気が消えて真っ青になった、その次の瞬間、小さな頬は大輪の花が咲くようにみるみると朱に染まる。






目の前に、その男がいた。






「やっと来たか朽木!何してたんだよ、寄り道せずにとっとと来い!」
すっかり固まってしまったルキアの視線を受けた鵯州は、しかしそんなルキアの様子に全く気づいていないのか、大きな口を開くと大声で出迎えた。
「あ、あの…これ―」
なんとか言葉を取り戻したルキアは、おずおずと包みを差し出す。だが鵯州はそれを興味なさそうにちらりと一瞥しただけで、長い爪で電波計測機の並んだ部屋の一角を指差した。
「そんなもん、そこに置いとけ。お前はこっちだ」
当たり前のように指定されたのは、鵯州の椅子から少し離れた所にある、小さな丸椅子だった。鵯州は間髪入れずに辺りを見回すと、決して上品とは言えない大きな声で辺りに怒鳴り散らす。
「俺の一番大事なモンだ、触るんじゃねぇぞ!リン!てめぇは半径5メートル近づくなよ!」
「わわわ分かりましたよぅ!」
びくりと肩をすぼめて怯えるリンを申し訳ないと思いながら、ルキアはそそくさと椅子に腰掛けた。






鵯州は慌しく頭の取っ手を回すと眼球を繰り出し、ルキアを至近距離から眺める。
鵯州の前でのルキアはさながらガラスケースに収められた鑑賞品で、訪れるたびに至極大切に、変人は変人なりに想像できる限りの丁重さで扱われた。ふと気づくと、室内にいる局員たちの椅子はどれもこれも不思議な生き物でできていたが、ルキアの椅子だけはごく普通の丸椅子だった。爪の生えた椅子、奇声をあげる椅子、もぞもぞと蠢く椅子たちを見ながら、ルキアはこれもこの異形の男なりの気遣いなのだろうと思った。



この部屋の中では、誰であろうとルキアに触れることは許されなかった。先日のリンのようにうっかり肩でも触れようものなら、鵯州の嵐のような怒号と罵声と叱責と制裁とが降った。そして鵯州自身も、決して不用意にルキアに触れようとはしなかった。ルキアが足を踏み出せば、おどおどと後ずさる。手を差し出せば、おろおろと惑う。だが決して視線は逸らさず、ルキアの動きにぴたりとくっ付いて離れない。まさに“一番大切なもの”にふさわしい、鵯州なりの執着の表現だった。



ルキアを凝視したままむくむくとした指が不思議な線を描いて宙を動いているのは、ルキアに触れる感触を想像しているのだろう。そしてその大きな口がにんまりと弧を描いているのは、想像の感触が鵯州を楽しませているからに違いない。










だがその指がルキアに触れることはない。
一度だって、ないのだ。





手を伸ばせば届く距離にいながら、遠く届かないものを想うように、ルキアは鵯州を見る。









ねぇ本当は、その柔らかそうな手にこの手を重ねたい。
その大きな頭に腕を回したい。
そのカラクリの目が見ているものを一緒に眺めたい。






ルキアはため息をついた。












一番になることは、なんて嬉しくて、なんて悲しいことだろう。













独楽夜千代様に捧げます!!ああぁやっちゃいましたよヒヨルキ!!

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