大人だと引いた境界線は、
「では、私はこれで」
ルキアは手際よく筆を仕舞うと、無駄のない仕草で立ち上がった。そうして彼女は帰ってゆく。
「そうだな、全部終わったな」
積み重ねられた書類の束をぽんぽんと叩きながら、いつも部下に見せる優しい表情を浮かべ、浮竹はにっこりと頷いた。
浮竹が病に伏せっていたここ数日のうちに、書類は山のように溜まってしまった。
普通ならば副隊長が手伝うはずの作業は、副隊長のいない十三番隊では三席以下の仕事となる。しかし仙太郎と清音は事務作業に向かない。そんな時、真面目で能率の良いルキアに声がかかるのはいつものことだった。
おそらく、そこに公平な隊長の意図的人選は存在しない。
おそらく。
「急ぐのか?」
問うた浮竹に対し、ルキアは身支度を整えながら慌しく言葉を重ねた。
「恋次との約束がありますから」
「遅くなると兄様が心配なさるのです」
「遅くに出歩いていると、なぜか市丸隊長に捕まってしまいますし」
「明日は朝から檜左木殿に稽古をつけてもらう予定で」
「それに目の下にクマを作ると阿近が非常に不機嫌になるのです」
そうして君の口から流れ出るのは他の男の名前ばかり
どんなに待っても俺の名前は出てこない
どうして気付かないのかな
たくさんの男に手を差し伸べられて愛されているというのに
それでも君は心を閉ざし一人で生きていこうとする
俺のこの手も君は握ろうとしない
「そうか」
雨乾堂の軒先に腰を下ろすと、ルキアは草履を履き始める。その器用に動く指先を、浮竹は慈しみと痛みのこもる思いで見つめる。目の前の尊敬する隊長が、実はいささか落胆していることにルキアは気付いていない。
いつもそうだ。
浮竹の喉元まであふれる言葉は、伝えようとする傍から行き場をなくし、言葉に取り残された男はただ笑顔を浮かべるしかなく、後には歯がゆさと苦い思いだけが残る。
そこにあるのは、上司として、大人としての分別という目に見えない、しかしはっきりと主張する境界線。
そして肝心な時に喉元から漏れ出てくるのは、比喩でも何でもなく、本当にただの血塊だったりする。
戻っておいで
いつだってこの腕は君のためにあるんだ
どこにいたって俺の心は君のところにあるんだ
そんなに丈夫ではない俺だけど(むしろ身体は弱いんだが)
君のためにだったら
どんな苦しいことにだって耐えられると思うんだ(苦い薬だってちゃんと飲むよ)
「では、失礼致します」
目線の遥か下から聞こえた凛とした声と、ぴょこんとお辞儀をする姿に、はっと我に返る。
律儀なルキアは浮竹の返答を待っている。
このまま見送るか、
―それとも。
「あー、あのな、朽木」
「はい?」
「えーと…ああ、そうだ。実はもう一つ、手伝ってもらいたい書類があるんだが…」
大人だと引いた境界線は、こうして脆くも崩れ去る。
わしわしと長い白髪を掻く上司を見上げながら、ルキアは困ったように笑うと
「今日は、丸一日の作業になりそうですね」
と再び草履を脱ぎ始めた。
何一つ疑うことを知らない澄んだ瞳に、浮竹の脆弱な胸がちくりと痛む。
愛しい人よ、気づいているかい?
俺は君が知っているほど大人ではなく、みんなが思っているより青臭く、
そして自分が分かっている以上に悪い男なんだ。
愛しい人よ。
境界線を越える俺を、どうか許してくれ。
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