御題目次

お前は賢いな





ルキアは座り込んでいたクッションから立ち上がると、読み終わった本を片手に、机の横の本棚へ向かった。
机では石田雨竜が、黙々と勉強をしている。
この家に入った時に言葉を交わして以来、この男の声は聞いていない。
無駄口を吐くことがもったいない、とでも思っているかのように、普段から口数の少ない雨竜だ。でもその静けさも、物の少ないこの部屋も、本を読むルキアにとっては有難かった。



雨竜のぴんと伸ばされた背中を見て、ルキアはふと義兄の背中を思い出した。
そうだ、どことなく似ているのだ。
この寡黙な二人は。






一護の部屋で、ルキアは教科書以外の本を見たことがない。だけど石田の部屋には、専門書から文学書まで、ありとあらゆる本がそろっていた。
空座町の図書館は少し離れた所にあるし、本が読みたい時、雨竜に拒まれない限り、ルキアはここへ来ることにしている。
もっとも、拒まれたことはこれまで一度もないのだけれど。






「数学ばかりしているのだな」
本を物色しながら覗いてみると、今日も、雨竜の机の上に広げられているのは数学の参考書だった。
雨竜は顔を上げることもなく答えた。
「数式の世界が好きなんだ。答えがはっきりしているからね」
そう。
そこには、魔法もしがらみも限界も親も感情も、余計なものは何もない。
「明確な答え以外のものなんて、全て無駄だ」
ようやく顔を上げてそう言った雨竜から目をそらし、ルキアはそっと笑った。
「お前は賢いな、石田」
薄い文庫本を手にクッションの位置へ戻り、座り込む。ふと視線を感じて顔を上げると、雨竜が自分のほうを見ている。
雨竜は指で眼鏡を押し上げながら、不機嫌そうに眉をしかめた。
「納得いかないな」
ルキアがきょとんと見つめている。
「賢いというのは普通、褒め言葉のはずだ」
「―ん、」
「なのにどうして朽木さんは、哀れむ顔をするんだ」
弓矢のように鋭い視線が、自分に向けられている。ルキアは開きかけた文庫本をそっと閉じた。






哀れんだつもりはなかった。
賢い、と思ったことも嘘ではない。
はっきりした答えだけを求めて、それだけを自分の信念として生きていられたら、どんなに楽だっただろうと思う。
そして、これからもどんなに楽だろうと思う。
だけど、自分にはそれができないのだ。
そして、気づいてしまったのだ―




「どうしてか、と言われても…」
ルキアは目を伏せて少し考え、そして静かに言った。



「賢い人は寂しい、と私は思う」



義兄の孤高の後ろ姿が、頭の中をよぎる。
「本人がどうなのか私は知らない。でも、賢い人は寂しい、と私は思う」







紫紺の大きな目が、雨竜を見上げていた。
雨竜はしばらく言葉を探し、
「それは君の勝手な想像だろう」
そう言い捨てるとくるりと椅子を返し、再び机に向かった。
後ろから、ぽつりとルキアが呟く。
「不快な思いにさせたらすまない。もう、このことは言わないようにする」








小さな部屋に、ルキアが本のページをめくる音が響く。
さらり、さらりと乾いた音がするたびに、どこかの神経が無遠慮に撫でられているようで、雨竜はぎゅっと眉根を寄せた。






雨竜の手は止まったままだ。
ルキアの言葉が、頭から離れなかった。
寂しいなんて思ったことはない。
哀れに思われるのは不快だ。
だが、ルキアの言葉はその瞳と同じで、時に耐えがたいほど真っ直ぐに雨竜の胸に届く。








ぱたん、と本を閉じる音がして、背後でルキアが立ち上がった。
「邪魔したな、石田。また来る」
足音が背後を通り、部屋を出てゆく。
小さなアパートは、玄関までの距離も近い。足音はすぐに止まり、玄関にコト、と鞄を置く音がすると、続いてトントン、と靴を履く音がした。



急かされるように、雨竜は立ち上がった。
玄関ではルキアがドアノブに手をかけている。扉が開くその間際に、雨竜は靴下のまま玄関に駆け下りた。ルキアの横をすり抜けて、扉の前に立ちふさがる。
「っ石田…?」
ルキアが、ドアノブから手を離して目を見開いている。
その目を見返すことができずに、雨竜は落ち着きなく視線をさまよわせた。
どう言ったらいいのか分からなかった。
何をしているのか、と問われても、うまく説明ができそうにない。
靴下の裏から、玄関のタイルの冷たい感触が伝わってくる。
搾り出すように声を出すのが精一杯だった。狭い空間の中で、かすれた声はやけにはっきりと響いた。
「―それは、君の、勝手な想像だ」







やや間があって、雨竜を見上げたままルキアは小さく苦笑した。
「前言撤回だ、石田」
「―え?」
ゆらりと両手を伸ばすと、雨竜の顔をそっと包む。
「愚かだな…私も、お前も」
ルキアの小さな手は温かかった。ゆっくりと頭を引き寄せられたかと思うと、柔らかな感触が額に触れる。
目の前に、ルキアの制服の襟元がある。
かすかな甘い香りが鼻をくすぐった。






唇が触れた、と気づくまでに時間がかかった。
立ち尽くしたままの雨竜を前に、ルキアは何もなかったかのように再び靴を脱ぐと、
「さて、続きでも読むとするか」
すたすたと部屋へと戻っていく。
「…っな!?」
慌てて額を押さえた雨竜を、意地悪そうな笑顔が振り向いた。
「それが答えだ、賢いクインシー殿」
「―っえ!?どういうことだ、朽木さんっ!?」
「さぁな」
「説明してもらおうじゃないか!」
あはは、と明るく笑う声が響いて、雨竜は靴下の汚れを落とすことも忘れてルキアの後姿を追いかけた。








結局、石田雨竜はその日、数学の勉強なんて全く進まなかったということである。










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