御題目次

祈ることしかできない





言うな。
聞きたくない。







いつもは片時も離れることなく自分の近くに置いておき、日がな一日その姿を眺め常に触れて確かめていたい、とルキアに対して狂気とも言える執着を見せる阿近だが、ここ数日はルキアに会うことを避けていた。
ルキアが時折出入りする自室には戻らず、迷路のような技術開発局の奥の実験室に閉じこもって研究にふけり、外に出る機会があればルキアのいそうな場所は遠回りして避けるという周到ぶりだった。
実験室には誰も近づかせなかった。
したがって、今ルキアがどうしているのか、技術開発局へ足を運んで来たかどうかすらも阿近は知らなかった。
いや、知らずに済むよう計らったという方が正確だろう。ただでさえ冷徹で険しい顔をした阿近が、理由は分からないが取り付かれたように実験に没頭する姿に恐怖以上のものを感じたのか、局の連中も誰も近づこうとはしなかった。




そうして何日かが過ぎた時、阿近はどうしても実験に必要な本が手元にないことに気づいた。
思い当たる場所は、自室の本棚。おそらく机の左手二つ目の本棚、上から三段目の右側だ。
この部屋に時計などない。外が昼なのか夜なのかは分からないが、自室へ取りに行くしか道はない。願わくば人の寝静まる夜中であるように、そしてルキアに出会わずに済むように。
阿近は祈るような思いで廊下に足を踏み出した。




変人たちの巣窟に昼夜の区別はなく、すれ違う研究員たちの顔ぶれはいつもと変わらない。だが廊下の窓から見える景色は墨を塗ったように暗く、鎌のような月が冴え冴えと天空に鎮座する。
世間はどうやら夜中らしい。






狙いの本は確かに思っていた場所にあった。
つい習慣で椅子に腰を下ろし、無心にページをめくっていると、ふと戸口に人の気配を感じた。わずかに開けたままにしていた扉の隙間から、廊下の明かりに照らされて小さな影が部屋に伸びる。
それが誰であるかを察知して、阿近は紙面に目を向けたまま息を飲んだ。






ここ数日の周到な回避。
直面したくないが故に避けていた現実。
その到来を感じて、阿近は身動きすることもできずにページの一点を見つめる。そこに書かれた内容は、もはや頭には入ってこない。黄ばんだ紙をつまむ指先が、かたかたと小刻みに震えだした。






いつもは例え重要な実験の最中であっても、実験器具を即座に投げ捨ててその身体に触れようと手を伸ばす阿近だが、今その身体は鉛のように重く、鋼鉄のように硬く、硝子のように怯えていた。
油断した己が愚かだったと呪ってみても、時は既に遅い。




言うな。
聞きたくない。






小さな影は何も言わず、するりと部屋に入った。静かにその歩みを進め、机に向かう阿近の隣に立つ。阿近は視線を上げることができない。
人影がわずかに、息を吸ったのが分かった。




言うな。




「阿近」


聞きたくない。






「しばらく虚圏へ行ってくる」








がたり、と派手な音を立てて椅子が倒れた。
「行くな」
力の限りに細い肩を掴む。その言葉と視線を受けたルキアは、しかしあくまでも毅然としていた。
「私は織姫を助けねばならん」
「あんな無能な人間のことは忘れろ」
「恐らく近いうちに藍染たちが動き出す」
「観測しているのは俺たちだ、それくらい知っている!だがなぜお前が行く必要がある?」
「一護や石田たちだけでは無理だ。私が行かねばなるまい」
「応援が欲しいならいくらでも戦闘用の義骸と義魂丸をくれてやる!なぜ連中はお前を前線に引き出したがるんだ!」


阿近は苛々と、ぎこちない手つきでルキアの顔に触れる。
まるで、その指先に刻むように。


「お前のこの腕、この指、この肌、この顔が傷つくかもしれない。なぜ奴らはそれを恐怖だと思わんのだ」
「仲間が危機に晒されているのだ、私一人の怪我など小さい」
「お前が傷つくこと以上の危機などない」
断定的な口調はいつもと変わらないが、その低い声には怒りが込められていた。
「お前がここを離れること以上の恐怖など…ない」
そして最後の言葉は、搾り出すような呪詛の声だった。




阿近は急にルキアから手を放すと、らしくない慌しさで薬品の入った戸棚を探り始めた。ガラスのぶつかる音や何かが倒れる音、乱雑な音が部屋に響く。阿近は幾つかのビンや箱を取り出すと、次々と机の上に並べた。
「この薬を飲め。数時間後には昏睡状態になって、解毒剤を飲ませるまでは眠り続ける。それともこっちがいいか?身体から力が抜けて、数日間は寝たきりになれるぞ。こっちの布は更木の眼帯と同じ仕様だ、裏に霊力を食べる化け物が仕込んである。身体に巻きつければ誰にも気づかれない。あぁそうだ、この…」




「阿近」




ぴん、と張り詰めた声に遮られ、振り返るとルキアが真っ直ぐに見つめていた。
宣告するようにゆっくりと動く唇を、阿近は絶望とともに見つめるしかなかった。




「私は、虚圏へ、行ってくる」




へなへなと、膝から力が抜けそうになる。阿近はよろめき、ルキアにしがみつくようにして膝をついた。
「なぜだ…」


ルキアは誰にも折ることのできない強い矜持をもち、他人のためならいつでも容易くその命を投げ打つ覚悟を備えている。




阿近にはそれが眩しい。
そして、何よりも恐ろしい。






祈ることしかできない。
無事でいてくれ。
必ず此処へ、この腕の中へ帰ってきてくれ、と。








もはや阿近の口から言葉は出てこなかった。跪き、ルキアの薄い身体を抱きすくめたまま、言葉にならないかすれた呻き声だけが漏れていた。
―泣いているのだろうか…
そう思ったが、ルキアの角度から阿近の顔は見えない。ルキアはただゆっくりと、阿近の硬い髪を撫で続けた。


ルキアの手の内にあるこの頭の中には、医学や機械や薬や生き物、その他ルキアには想像もつかないほどのありとあらゆるものに関する膨大な知識が詰まっている。それは一体どのあたりに詰まっているのだろう、と思うとおかしさがこみ上げてくる。
そしてこの頭の中に自分に対する執着も詰まっているのだ、と考えると、この角の生えた頭も愛おしく思えて、ルキアは青白い額にゆっくりと口付けを落とした。








二人は長い時間、そうしていた。
そして月が傾き、東の空が暁に染まろうとする頃、ルキアは来た時と同じように静かに部屋を去った。
ルキアが部屋を出た後も、阿近は跪いたままうつろな眼で中空を見つめていた。
まるでよくできた義骸のように。











数日後。
技術開発局の研究室には、いつにも増して熱心に実験に取り組む阿近の姿があった。
「どうしたんですかねぇ」
「少し前からあんななのさ」
「仕事片付けてくれるのは有難てぇや、へっへっ」


この際、絶えず襲ってくる虚無を追い払ってくれるのであれば、手術でも実験でも何でも構わなかった。何かに集中していれば、全てを忘れることができた。
あの日、自分の手を振り払った後ろ姿も、頭蓋を這う指の感触も、額の口付けの温かさも。








同じ頃、虚圏。
翻弄され四肢から血を流した果てに、ルキアの柔らかい肌にアーロニーロの一撃が突き刺さった。
ルキアにもはや抵抗する力はない。
ずぶりと体を貫く音が空疎な部屋に響く。




「く…っ」


―あ


「…そっ…」




―あこん…っ




強烈な痛みが身体を支配する。
言葉を発することすら苦しい。
斬魄刀を握る指先に力が入らない。
喉の奥を生温かい血が逆流する。
不気味に笑う上官の顔を見下ろす。
視界がゆっくりと霞む。




―あぁ、また貴様は怒るのだろうな


薄れてゆく意識の中、おぼろげに浮かんだのは、こめかみに青筋を立てて悲しそうにたたずむ青白い鬼の顔だった。












阿近はふと、作業の手を止めた。
ガラスの試験管が手から滑り落ち、派手な音を立てて砕ける。
こぼれた液体が異臭を放ちながら床を溶かす。


理由は分からない。






「―っ…」










ただ、涙があふれて仕方なかった。














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