僕等はその間で息をする
ぱら、と紙をめくる音がして、僕はノートから顔を上げた。
部屋の隅で、朽木さんが本を読んでいる。もう、何時間もあの姿勢のままだ。部屋の窓を雨が打ち始めたのを確認して、僕は解きかけていた公式に視線を戻した。外は暗くなっていた。
今日の放課後のことだった。
「石田。今日、帰りに本を借りに行っていいか?」
廊下を歩いていると、朽木さんがそっと聞いてきた。彼女がそう言って僕の家に来るのは初めてではない。
「僕はこのまま帰るから構わないよ」
いつものように素っ気なく返事を返すと、ありがとうと言って彼女は廊下を引き返していった。引き返していった先で井上さんや有沢さんの声がするのを背後で聞きながら、僕は靴箱へと向かった。
朽木さんの目当ては、多分あの本だろう。
彼女が熱心に読んでいるのは、いま流行りのファンタジー小説だ。僕にしてみれば、彼女らが住んでいる世界のほうがずっと非現実的だと思うが、どうやら彼女にとってはファンタジーの世界のほうがずっと不思議で華やかな世界に見えるらしい。
彼女は特に、主人公たちが使う魔法に惹かれたらしい。いったい鬼道と何が違うんだろう、と不思議に思うけれど。
家に来て、彼女が手に取ったのはやはりその本だった。
少しだけ、と言って読み始めた彼女は、いつの間にか座り込んで読みふけっていた。
それもいつものことだった。
「どうしよう」
ぽつりと呟いて、朽木さんが顔を上げる。眉根を寄せて、いかにも困っているという表情だ。
「止まらなくなってしまった」
「今、どこ?」
「主人公が秘密の扉の鍵を手に入れたところだ。師匠が扉の在り処のヒントをくれた。きっともうすぐたどり着くはずなのだ」
あぁ、確かにクライマックスだ。彼女が渋るのも無理はない。
「持って帰っていいよ。僕はもう読み終えたから」
だけど朽木さんは首を振ると、寂しそうに窓の外を見た。
「それはできない。外はあんなに雨が降っているのだ。持って帰ったら濡れてしまう」
「なら、好きなだけ読んでいったらいい」
別に何気ない提案だったと思う―
だけど朽木さんは予想以上の反応で目をキラキラさせ、
「そうか!そのテがあったな!」
と、分厚いその本を握り締めた。だけどすぐにその表情は曇った。窺うように僕を見上げる顔は、僕より何百歳も年上だとはどうも未だに信じがたい。
「でも邪魔ではないのか?」
「だったらとっくにそう言ってるさ」
事実、彼女はいつも静かだ。
部屋の片隅、もう定位置になったクッションの上に座って、黙々と本を読んでいる。
そもそも人がいようがいまいが、僕の過ごし方はさして変わらないけど、机に向かって勉強をしていると時々、彼女がこの部屋にいることを忘れる。
「一護にそう伝えねばな」
朽木さんは伝令神機を取り出してしばらく操作した後、ふと思い出したように顔を上げた。
「一護との連絡のとり方を知らない」
あぁ、そうか。
彼女は黒崎の部屋の押入れに住んでいる。黒崎の家に戻らない時、というのは死神の任務が入った時で、その任務の時は死神代行とやら(全くふざけた名称だ)の黒崎と一緒だ。
つまりは黒崎と別行動、ということが今までなかったんだ。
「携帯の番号なら知ってるよ」
僕が自分の携帯電話を差し出そうと立ち上がった時だった。朽木さんが言った。
「なら、一護に伝えてくれないか。今日は戻らないと」
―え、
時計を見れば、いつのまにか20時だ。
彼女の言葉は正しい。
このまま読み進めていれば、確実に夜中になるだろう。
家まで送る、という方法もあるけど、明日は土曜日だ。急いで黒崎の家に帰る必要もないと彼女は考えたのだろう。ひょっとしたら、続刊まで読もうとしているのかもしれない。
だけど―
それを、僕が、黒崎に伝えるのか?
「あ、あぁ」
一瞬ためらったのを悟られないようにして、僕は携帯電話を慌ただしく操作した。何かがまずいような気がするが、何がまずいのかよく分らないし、そもそも連絡の用件は至極真っ当なものだ。僕に非はない。
画面に出た黒崎の番号をしばらく見下ろして、メールにするか電話にするか考えた後、通話ボタンを押した。呼び出し音が2度鳴って、黒崎は出た。
「おぅ」
「今、朽木さんが僕の家に来ている」
「あぁ。遅いから早く帰れって―」
「今晩は戻らないそうだ」
黒崎の眉間の皺が深くなるのが分かった。
言い訳がましいと思いながら、僕は続けて言った。
「外は雨がひどいし、最後まで読みたい本があるらしい」
沈黙は長かった。
不機嫌そうな空気が、携帯を通して流れてくるようだった。
何か他に言うことがあるかと考えたが、言うべきことはもう言っている。
窓の外に目をやるとガラスに映る自分と視線が合い、思わず目を逸らした。眼鏡を指で押し上げて、机の上に視線を落とす。開いたノートの白さが、妙に浮ついて見えた。
急にひどくなった雨が、窓を打つ音が聞こえるが、携帯を通して聞こえる黒崎の部屋の音なのか、自分の部屋の音なのか分からない。
ただひとつ確かなのは、僕ら3人は同じこの雨の中にいる、ということだ。
「―分かった」
通話を切ったのは黒崎の方だった。
画面を見下ろしていると、吸い込まれるようにバックライトが消えた。
表示された通話時間は20秒にも満たなかった。
もっと、長かったように思った。
「一護は?」
そう問う声で、僕は我に返った。朽木さんが僕を見ている。
「分かった、と」
「そうか、ありがとう」
朽木さんはそう言って笑うと、視線をすぐに本へ戻した。
クッションの上に体育座りをした彼女は、足先をもそもそと動かしながら懸命に字を追っている。その姿は無邪気で、やっぱり何百年も年上だとは信じがたい。
―黒崎の家でも、同じように本を読んでいるんだろうか。
ふと考えて、振り払うように音を立てて携帯電話を閉じると、椅子に座り直して机に向かった。
参考書をぱらぱらとめくる。朽木さんがページをめくる音が重なる。
主人公はもうすぐ、秘密の扉にたどり着くだろう。
そして握り締めた鍵を使って、その扉を開けるだろう。
だけど、それは開けてはいけない扉なんだよ、朽木さん。
その扉の向こうには、まだ誰も見たことがない、混沌とした世界が広がっているんだ。
だけどもう、主人公は後には戻れないんだ。
扉はもう、開いてしまったんだから。
全ては動き出してしまったんだ。
僕は外の暗闇の向こうで、じっと息を殺して考え込む黒崎を想像した。
止む気配のない雨音の中で、今、僕等はそっと息をしている。
朽木さんは今夜、ここで過ごす。
黒崎の家には戻らない。
それを僕が伝えるなんて、これじゃまるで―
まるで、宣戦布告じゃないか。
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