書庫目次

刑事もの





刑事部長の部屋は、最低限の調度品しかないがらんとした部屋だった。
一護は今、辞令が下りるのを待っていた。警視庁6階にある刑事部長室の窓からは、颯々とした初夏の光が差し込んでいる。今日もいい天気だな、と一護はぼんやりと考えた。


本来であれば4月1日より警視庁の刑事として働き始めるはずだった。しかし入庁する正にその日の朝、幸か不幸か路上でチンピラ数人のカツ上げを目撃してしまったのだった。思うより先に、身体が動いていた。軽い足取りで駆け寄ると一人の男の腕を掴み、ぎりぎりとねじ伏せる。横合いから向かってきた男の腹を、踵で蹴り倒す。騒ぎを聞きつけて所轄の警官がやってくる頃には、チンピラどもを一人で取り押さえていた。ある者は鼻血を流し、ある者は激痛に顔を歪めながら。
しかし、一護の方も怪我をした。大した傷ではないと言い張ったが、現場に来ていた所轄の警官は困惑した表情のまま救急車を呼び、一護を無理やり搬送させた。病院で検査した結果、肋骨が折れていることが分かり、即入院と言い渡された。あの程度の怪我、気合でなんとでもなったのに、と今でも思う。




警察学校を出て、初めは交番勤務だった。交番でぼーっとしているよりも身体を動かしているほうが数倍楽しく、ただひたすら誰よりも早く現場に向かい、がむしゃらに働いた。そうこうするうちにいつの間にか数々の手柄を立て、まわりに注目されるようになっていた。刑事という仕事を意識するようになったのは、その頃だ。
“町のおまわりさん”はやりがいもあり楽しかったが、それだけでは満足できない自分がいた。







ふつふつと胸のうちにくすぶる何か。
今にも暴れ出しそうになる、自分の中の何か。








もっと上を、もっと強く、と望んだ時、目の前に見えたのは刑事という仕事だった。


それから数年、勤務の傍ら勉強し、試験に合格してやっと手に入れた刑事の仕事だった。

その矢先の入院はこたえた。同期は既に入庁し、現場で働いているのだろうと思うと居ても立ってもいられなかった。焦りと苛立ちから入院中も身体を鍛え、法律の勉強をしては看護婦たちに怒られた。






それから1ヶ月あまり。今日、やっとこの場に来た。
ガラス窓を背にして立つ刑事部長は、恐ろしいくらいに無表情な、冷たい雰囲気のする男だった。一護が入室し人事課長が事情を説明する間も、眉一つ動かすことなく立っている。一護の場所からは逆光になってよく顔が見えないが、想像していたよりも若く、きれいな目鼻立ちをしていた。大方、キャリアの人間だろう。現場に直接出ることはないだろうが、それは幸運なことなのかもしれない、と一護は思った。この男に取調べをされたら、その怜悧な雰囲気だけで殺されるのではないかという恐怖を味わう気がした。
「本日をもって、警視庁刑事部捜査一課に任ずる」
「はい!」
「いま、係の者が迎えに来る」
その迎えは少し遅れているらしかった。部屋の中に、静かな、腹の底の冷えるような沈黙が流れる。ふと刑事部長が一護を見遣ると、短く問うた。
「所属は」
「第2強行犯捜査、3係です」


ぴくり、と男の表情が動いた。能面に亀裂が入るように、その冷徹な表情からじわりと好意的でない空気が漏れた。
―俺、何かまずいこと言ったか?
と慌てて自分の頭の中を探る。刑事の花形である捜査一課は幾つかの班に分かれており、班の中でもさらに幾つかの小班(係)に分かれている。自分の所属は第2強行犯捜査(2班)の3係で間違いなかったはずだと思い直し、そのどこがいけなかったのか、と冷や汗を流しながら考える。
するとどんどんと慌しく扉を叩く音が聞こえ、それとほぼ同時に一人の男が入ってきた。角刈りの頭にサングラス、ベージュのコートという格好は、先日カツ上げをしていたチンピラにどことなく似ている。
「すんまっせん遅くなりました!射場です!」
「連れて行きなさい」
人事課長がそっけなく言い放つと、射場と名乗った男はサングラス越しにちらりと一護を見た。ここに長居したくない、という思いは二人とも同じだ。二人してそそくさと会釈をすると部屋を出た。
しかし一護は、部屋を出ようとした瞬間に刑事部長から向けられた言葉を聞き逃さなかった。
研ぎ澄まされた日本刀を喉もとに突きつけられたようにその言葉は一護を射すくめ、ひやりとした感触が身体を支配する。





「せいぜい、足を引っ張らぬように」







以下 続く







書庫目次


Copyright(c)酩酊の回廊 2008 all rights reserved.