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江戸もの 参





川沿いの土手をすたすたと歩く女の後ろを、長屋の主人がおどおどとついて行く。
東の空がうっすらと桃色に染まり、日の出が近いことを告げていた。川面からは湯気のように靄が立ち上り、遠くの景色がたゆたうようにぼやけて見える。頬に当たる朝の空気が冷たい。
遠くで、鶏が一声鳴くのが聞こえた。約束の時間は近い。


主人は、着物の前をかき合わせながら尋ねた。
「あんた、やっぱり行っちまうのかい?」
「うむ、約束したから仕方あるまい」
「あの家から怪我もしねぇで帰ぇってきたのはあんただけだ」
「そうか」
女はふと思い出したように足を止めると、黒衣の袖を探った。
「そうだ、主人。礼をするのを忘れていたな」
袖の中から取り出した物を、ぽん、と主人の手に握らせる。
「奴を弔ってくれてありがとう」
主人の手のひらの中には、目にも眩しい小判が二枚。生まれてこの方、一度も見たことのない黄金の輝きだ。
「い、いらねぇよ、こんな大金!!仕舞ってくれ!」
「一つは奴の分、もう一つは私の分だ」
「へ?」
「私が討ち死にしたら、奴の隣に埋めてほしい」
絶句する主に向けて、女は淡々と言葉を続ける。
「あの男は寝相が悪いから、棺桶の中もさぞかし賑やかだろうな」
あはは、と軽やかに笑う横顔は、とてもこれから命を賭けた殺し合いをするとは思えない。気付けば、二人は既に太鼓橋の見える所まで来ていた。
「あんた…」
「世話になった、主人。息災でな」
女は微笑むと、軽い身のこなしで、振り向くこともなく土手から川辺へと降りていった。




朝靄がうっすらとかかる川辺に、剣八は一人で石の上に腰掛けていた。
女が近づいてきていることには随分前から気付いている。さく、さく、と草を踏む音が少しずつ近づき、靄の中からぼんやりと黒衣の姿を現した様は確かに死神のようだが、その華奢な体は、野の花を摘みに来た少女にしか見えない。
女と目が合うと同時に剣八は吐き出した。
「てめぇの名前、思い出したぜ」
言葉の先を促すように、女は小首を傾げる。
「あの刺青の男が死に間際に言ってやがった…『ルキア、ルキア』ってな」
女の目が一瞬かげる。少し、こわばった声で女は尋ねた。
「一つ聞きたい。奴の腕前はどうだった?」
「愉しかったぜ」
「それを聞けてよかった」
そう言って、女はふわりと笑った。その唐突な笑顔に、伝えられて良かった、という似合いもしない感傷が剣八に湧く。
「あの世で会え」
「知らぬか?仇討ちは常に、弱い者が勝つようになっているのだ」
「はははは!」
剣八は握っていた剣を持ち上げた。女もすらりと剣を抜くと、正眼に構え、剣八を見据える。
凛とした声が告げた。
「我が名は朽木ルキア。流派はない。ただの流浪人だ」
遠くの稜線からゆっくりと朝日が昇る中、最初の剣戟が響いた。










暑い、と剣八は思った。
容赦なく照りつける日差しがじりじりと皮膚を刺し、鬱陶しい。
暑さのせいで、剣八の好きな血の匂いは生臭さを増し、べったりと鼻腔にまとわりついて不快だ。



数時間の間に、河原には二人を見物しようとする人だかりができた。二人が剣をぶつからせる度に騒ぎ立て、その声も剣八には不愉快で仕方なかった。




剣八は、自身の血溜まりの中に膝をついていた。
どくどくと血が流れてゆく。
腕も足も刀傷だらけだが、痛みも苦しみも感じない。
むしろ愉しく愉しくて仕方ないのだが、手が、足がもう動かないのが心底腹立たしい。



ルキアが右手に剣を下げたまま、数歩下がる。ぽたり、ぽたりとその剣先から真っ赤な血がしたたり落ちる。その頬に、白い袖口に、剣八の真っ赤な血が滲んでいる。
―終わる。
―死神が行ってしまう。
負けた、という事実よりもこの時間が終わる予感に、体中から血を流しながら剣八は怒鳴った。
「俺はてめぇを殺しに行くぞ!」
空気を切り裂いて、ルキアが白い剣を一振りした。川原の小石の上に、点々と血が飛び散る。懐紙で刃の血糊を拭きながら、ルキアはこともなげに言った。
「傷が治ったらいつでも私を探して会いに来い。逃げも隠れもせぬ」
「情けをかけると手前ぇが死ぬぞ」
「情けをかけているわけではない」
ルキアは天高く上った太陽を仰ぐと、眩しそうに目を細めて微笑んだ。
「恋次を知っている者が一人でも多い方が、私は嬉しい」




愕然とする剣八の前で、ルキアは静かに刀を納める。
そうして剣八に向かい深く一礼すると、きびすを返して土手を上がっていく。先刻まで、やかましいほどに騒いでいた人だかりが、今はしんと固唾を呑んで成り行きを眺めている。ルキアは人だかりの前に立つと、ここでも深々と一礼し、
「お騒がせして申し訳ない」
と一言呟いた。
人垣の中から現れた長屋の主人がおずおずと小判を差し出したが、ルキアはそれを片手で制すると、来た時のように軽やかに微笑んだ。
「あの男は鯛焼が好物だ。そなえてやってくれ。―また来る」
そして、しんと見守る人垣の間をまるで何事もなかったかのように通り過ぎると、土手を東の方へと歩いてゆく。
濃い、小さな影がその足元に落ちている。黒衣をまとったその姿は、晴れ渡った空にも、穏やかな川原の風景にも溶けず、まるで切り絵のようにくっきりと浮かんだまま、遠ざかってゆく。
その後ろ姿が見えなくなるまで、誰も、その場から動くことはなかった。









花の都の一角に、情に満ちた長屋がある。
笑い声は常に絶えず、人々は慎ましいながらも助け合いながら暮らしている。




その路地の奥に、かつて異形の者が棲んでいたという。
人々は恐れ、慄き、息をひそめて暮らしていたのだという。
いつの頃かその男は姿を消し、男の家は取り壊され、新しく建てた家には長唄の女師匠が住んでいる。




その異形の男が、北の国で色の白い小さな女と暮らしているのを見た、と旅回りの役者が話していたが、嘘か真か、事の仔細は定かではない。











以上、恋ルキベースの剣ルキ(?)でした。

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