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江戸もの 弐





剣八はその夜、ほとんど眠ることができなかった。


否、常からその眠りは浅く、鼠が家の前を走るような些細な物音にも、獲物を求める過敏な神経が反応して目が覚めてしまうのだが、昨晩はやや勝手が違った。






女が帰った後、日の暮れた頃、うとうととまどろむ中で珍しく夢を見た。


真っ白な空間に、剣八と死神の女だけが立っていた。
あたりにはおびただしい量の血が飛び散り、血独特の生臭い鉄の匂いが鼻をつく。
剣八の足元には大きな血だまりができていた。よく見れば、自分の四肢は切り傷だらけだ。見ている間にも、どくどくと血が流れてゆく。どうやらこの血だまりは自分のものらしい。


剣八は女を見上げた。
いつの間にか、血溜まりの中に倒れこんでいたのだ。


女は白い着物を着ていた。上着も袴も血を浴び、まるで白雪に紅梅が散っているようだ。
女は怪我一つしていない。紅く見えるのは、全て自分の返り血なのだろう。
誰からも忌み嫌われる自分に流れている血が、こうして見ればまんざら悪くないと思えるのは不思議だった。



ゆっくりと女が近づく。
すっと流れるような動作で、真っ白な剣が持ち上げられた。
よく磨かれた純白の切っ先が、寸分の迷いも無く剣八の眉間すれすれに突きつけられる。
音は無い。
女は何も言わない。
水晶のような瞳が、剣八を見下ろしている。


その瞬間、剣八の鼓動は高鳴った。


真っ直ぐに向けられた殺意に血が沸きあがる。
泥臭さの無い、澄んだ美しい殺意だ。
切っ先の向こうに、女の目が見える。
殺す覚悟を静かに宿し、怒りに燃える冷たい目だ。
この女は俺を殺すために来たのだ。
この曇りない殺意は、ただ自分だけに向けられているのだ。




あぁこれだ、と剣八は沈黙の中で思い知る。
これが死神なのだ。
この澄み切った覚悟こそが、死神と呼ばれる所以なのだ。
ただ猛るばかりの刺客とも違う。吼えるだけの雑魚とも違う。


それは確かに、神の領域なのだ。




臓腑が震える。
手足が喜びで満ちる。
微動だにしない刃に愛おしさすら覚える。

剣八はにやりと口角を上げた。



―斬られてみてぇ



心からそう思ったのだ。








自分の笑い声で剣八は目が覚めた。
愉しくて仕方がなかった。
幾多の死闘を潜り抜け、男たちを殺してきた自分が、この期に及んで斬られることを望んでいるとは、どうして信じられるだろう。しかも相手は、ひどく小柄な女なのだ。
「おもしれぇ」
闇の中で、獣のような目がぎらぎらと光る。
約束の時間まではまだ長い。




剣八はもう、まどろむことすらできなかった。











次で終わります!

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