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江戸もの 壱





この路地の奥に、異形のものが棲むという。
古い長屋の並んだ路地の奥には、もはや潰れるのも時間の問題と思われるあばら家が片方の柱を地面に傾がせたまま、やっとといった風情で建っていた。
屋根はほとんど朽ち果て、雨の日ともなると屋根としての役目を果たしているのかも疑わしい。土壁も半ば崩れ落ち、八畳ほどと思われる家屋の中は、外からも容易に見渡すことができた。
もっとも、中を覗こうとする命知らずな輩がいればの話だが。




その奥に、異形のものが座っているのだという。
ぎらぎらとした細い目と紅く裂けた口と見上げるほどの巨体をもつその生き物は、近づく者を刀で切り捨て、なぎ倒し、その刃がこぼれ四肢から血が流れてもなお笑みを絶やさないのだという。
腕に覚えある浪人、屈強な僧侶、どこぞの道場の師範代、名のある祈祷師―
挑んだ猛者は数知れず、だが転がる死体を増やすのみ。
誰もその異形を抑えることはできないのだという。








「あんた、止しねぇ!誰も生きて帰った奴ぁいねぇんだ!!」
長屋のまとめ役らしいその中年の男は懸命の表情で追いすがるが、その人物は気にも留めない様子でさっさと路地の奥へと足を進めた。ざく、ざく、と草履が地を蹴るたびに砂埃が巻き起こる。
「そうもゆかぬ」
両側に並ぶ長屋の中からは、住人達が興味深そうにその小柄な人物の姿を眺めている。
しかし彼らの目にもはや期待の色はなかった。奥のあばら家が恐ろしい場所となって早数年。こうして誰かが現れるたびに何度も期待し、何度も絶望した。どうせまた、この人も死体となって転がるのだ。
「おい、待ちなって!」
主人のがなり声に、その人物がぴたりと足を止めた。少し振り返り、主に向かって微笑む。
「御主人、そろそろ引き返したがよかろう」
その言葉に、主ははたと足を止めた。気付けば例のあばら家まで、あと少しの距離まで近づいている。
「…ひっ!!!」
主人は驚いて尻餅をつくと、慌てて路地を引き返した。巻き添えを食らうのだけは、勘弁である。




目の前の家に扉はない。藁のむしろが戸口で風になびいているだけだ。ばさりと音を立ててむしろをくぐると、屋内の暗さで一瞬目の奥が痛んだ。
闇に目が慣れていなくとも、部屋の奥から尋常でない殺気が漂っていることは十分に分かる。そして、その視線が自分に向けられていることも痛いほどに感じる。この時点で、普通の人間なら恐れをなして逃げ出すだろう。
暗がりに目が慣れるにつれて、部屋の奥に一つの大きな塊が見えてきた。その塊は腐った畳の上に胡坐をかき、大刀を肩に掛け、ぎらぎらと目を光らせてこちらを睨みつけている。腕も足も大きく、立ち上がればゆうに四尺はあるだろう。だが小柄な闖入者はふぅ、と溜息をつくと腰に差した刀の柄に腕を預けた。
「…なんだ。鬼だ、物の怪だ、と言われるから来てみれば…人ではないか。つまらぬ」
そして心底つまらなさそうに、近くに転がっていた石をつま先で蹴る。じれたように、その巨大な塊が声を発した。
「誰だ、てめぇ」
臓腑に響く低い声は、聞く者によってはそれだけで気を失わせるものかもしれなかった。だが相手はさらりと受け流すと、ぴしゃりと言い返した。
「まず自分から名乗るのが礼儀だろう」
本来ならば、来訪者から名乗るが礼儀であり、闖入者の言葉は無礼極まりない。だがその言葉には不思議な説得力があった。『つまらぬ』と言われた男は口の端をつり上げると、にやりと笑った。
人に説教を垂れられることなど、いつぶりだろうか。常に人に逆らい、常識を振り払って生きてきた自分にとって、そもそも説教された経験があるのかどうかも疑わしい。
―おもしれぇ
殺気の塊が再び声を発した。
「更木の剣八だ」
「私は―そうだな、巷では死神と呼ばれておる」
「死神?」
「理由は貴様の想像に任せよう」
闇に溶け込むような黒い袴姿は確かに死神然としているが、その裾からのぞく細い手足は、紛れもなく女性のものだ。頭からつま先まで眺めた剣八は、獣のような獰猛さを見せて笑った。
「殺されに来たのか?犯されに来たのか?」
「どちらも否、だ。私は貴様を斬るために来た」
「死神ってのは冗談も言うのかよ」
「ふむ。時と場合によるぞ」
のらりくらりとした答えに、剣八は苛立たしく立ち上がった。頭蓋が天井にぶつかり、ぱらぱらと畳に埃が落ちる。死神は物珍しそうに見上げた。
「…なるほど。鬼と呼ばれるのも道理だ」



ひゅ、と風を切り裂く音がして、剣八の刀が上段から振り下ろされる。
すかさず抜き払った女の刀が、刃こぼれも著しい剣八の刀を受けた。ぎち、と刃の触れ合う音が薄闇の中に響く。
剣八の目に、女の刀の光が眩しく映る。どんな鉄で作られているかは知らないが、柄も鞘も真っ白だ。だが、よく磨がれた刀身からは何度となく浴びた血の匂いがする。剣八の好きな匂いだ。
「おもしれぇもん持ってんじゃねぇか」
「ほぅ…どうやら、人並みの審美眼は持ち合わせておるようだな」
交えた剣の隙間から、女が不敵な笑みを浮かべた。




剣の世界では、体格の差はすなわち力の差ともなりかねない。身体が大きければ相手を押し負かすことができる。腕力の差は斬る力の差でもある。
しかし目の前の小柄な死神は、自分より大柄な相手の力を殺す術を熟知している。
この一太刀も、剣八は手加減したつもりはない。並みの男であれば、太刀を受けた瞬間に吹っ飛ぶような力なのだ。この最初の手合わせで、女の死神がかなりの鍛錬を重ね、相当の場数を踏んでいることは一目瞭然だった。
「口の利き方の気に入らねぇ奴だ」
「納得ゆかぬが、よく言われる」
「躾がなってねぇな」
「生憎、天涯孤独の身でな。しつけてくれるような肉親はおらぬ」
剣八が振り下ろした二の太刀を、女が刃を両手で支えて受け止める。きん、と心地いい金属音が響く。ふと思い出したように、女が微笑んだ。
「そう、幼馴染はいたがな」
「ならそいつに躾けてもらえ」
「いや、奴もかなり口の悪い奴でな。まぁ、今となっては死人に口なしだが」
「死人?」



その瞬間、剣八の辺りの温度が下がった気がした。



ひやり、と剣八の皮膚が薄ら寒い温度に包まれ、それが目の前の女の殺気だと気付くのにやや時間がかかった。女の瞳が、じり、と細められる。その刃同様、鋭い眼光が剣八の視界を射抜く。続けて女が放った言葉も、刃のように温度の低いものだった。
「貴様が斬ったのだろう?」
その殺気に剣八は思わず息を呑んだ。心の臓が凍えるようだ。
女は少しだけ声を低めると、続けて言った。
「紅い髪と派手な刺青をした男だ」




剣八の脳裏に、何人かの男の姿が浮かぶ。死ぬか生きるかのぎりぎりの淵で渡り合うことだけに意味を見出す剣八は、戦った相手がどんな人間かなどと意味がない。おそらく斬り捨てたその直後には、斬った相手のことは忘れているだろう。
ただ、その中に彼岸花のように赤い髪をした男がいたのはおぼろげながら覚えている。剣八が覚えているということはつまり、戦い甲斐のある男だったということだ。記憶を探る剣八に諭すように、死神は言葉を続けた。
「貴様に斬られた後、そこの長屋の主人が弔ってくれたそうだ」
「はっ、仇討ちか。俗な死神じゃねぇか」
「仇討ちは世話物の王道だろう」
剣八の胸のうちに、ふつふつと愉しさが湧き上がってきた。だが高揚感を殺ぐように、女は剣八の刀を弾き返すと、刀を構えたまま一歩後づ去った。
「こんな薄汚い所ではつまらぬ。日と場所を改めよう」
「いつだろうとどこだろうと殺し合いに変わりねぇ」
剣八はなおも刀を構えた。
だが女は優雅な仕草で刀を収めると、早くも戸口のむしろに手をかけている。
「此処は貴様の死に場所にふさわしくない」
剣八はぼろぼろの刀を下ろすと、ぎらぎらとした眼光を隠さず笑う。死神もまた、誘うように薄く笑った。
「明日の刻、太鼓橋のたもとで待つ」
「上等だ、死神」
来た時のようにむしろをくぐり、女が出て行く。








僅か数分の邂逅に、剣八の腕はしばらく震えが収まらなかった。










続きます!

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