さくら 〜ギンルキ編
浮竹隊長に頼まれた用事を済ませると、ルキアは寄り道もせずに十三番隊隊舎へと戻った。
気温の変化のせいか、春になるとすぐに病弱な上司は寝込んだ。最近になってようやく身体を動かせるようになったものの、隊務のほとんどは部下に任せており、したがってルキアにもまだ、片付けなければならない仕事が残っていた。
どうせ、机の上にはまた新しい書類が置いてあるのだろう。
溜息をつきながら自分の机の置いてある部屋を開けたルキアは、しかし、机の上に違う物を見つけた。
少し乱雑に折りたたまれた半紙。
「―?」
いぶかしみながら紙を広げると、そこには細く滑るような字で、こう書いてあった。
“酉の刻、高砂橋のたもと”
見知らぬ字だった。
隊長の太く柔らかい字とも、幼馴染の踊るような字とも、もちろん義兄の丁寧で激しい字とも違った。部屋には他の隊員の机も置いてあるが、それぞれどこかで仕事をしているのだろう、誰の姿もなかった。
この短い手紙の主が誰であるのか、知る者はいない。
誰が置いていったかは分からないが、無視するわけにもいかなかった。もし手紙の主がそれなりの立場にある人だったら、後々面倒だ。
「行くしかあるまいな…」
律儀なルキアは再び溜息をつくと、半紙を懐へと仕舞った。
酉の刻に合わせて仕事を済ませたルキアは、気の進まないまま高砂橋へと向かった。
日は少しだけ傾き、この季節らしい霞んだ光で辺りを柔らかく包んでいる。時折、満開になった桜の木が目に入った。風が、舞うように花びらを運んでくる。ルキアはその桜を見ながら、死神になる前に聞いた話をぼんやりと思い出していた。
その話をどこからか聞いてきたのは恋次だった。「おい、知ってるか?」と切り出した恋次は、車座になった仲間たちに神妙な顔で話し出したのだ。
「桜の木の下には、生き血や精気を吸う精霊がいるらしいぜ。それで、吸われたモンを糧に育つから、桜の花はうっすら紅いんだとよー」
その話に心底震え上がったルキアたちは、しばらく桜の木に近づくことができなかった。何十年と経った今でこそ、ためらいもなく桜に近づくことができるが、今でも咲き誇る桜の姿にはどこか畏れに似た感情を抱いてしまう。
「とんでもないことを教えてくれたものだな―」
走馬灯のように昔のことを取り留めなく思い出していたルキアは、ふと足を止めた。
高砂橋が見えた。
橋のたもとには、大きな桜の木が立っていた。
零れ落ちんばかりに咲いた桜の下に、ぼんやりと白い人影が見える。
―まさか。
恋次の話を思い出したルキアは、ふと背中に冷たいものが走るのを感じた。それでも意を決し歩みを進めるうちに、次第に白い人影がはっきりとした輪郭を持ち始める。
想像だにしなかった相手だった。
見知らぬ字のはずである。今まで、文をもらったことなど一度もなかったのだから。
「…貴方でしたか―」
相手はルキアを見ると、木にもたれかかったままふわりと笑った。
「来てくれたんやねぇ」
「…市丸…ギン隊長―」
自分よりずっと上背のある男を、大きな紫紺の瞳が驚いたように見上げていた。その瞳を見下ろしながら、ギンはただ一言を苦しそうに吐き出した。
「―会いたかったんや」
それ以上の言葉はなかった。いつもは流れるように言葉が溢れ出る口が、痛々しげに歪められたままだった。ギンがそっとルキアの小さな顎に指を触れた。優しく吹く風に、光を受けた銀色の髪がさらさらと揺れる。
―きれい…
とルキアが見蕩れた刹那、ギンが花びらに触れるような柔らかさでルキアの唇を吸った。
―奪ワレル
唇にふれた温もりは、春の日差しのように優しかった。その温かさに、ルキアの身体からはゆるゆると力が抜けていく。名残惜しく唇を離した男は、どこか悲しげな目をしていた。
どう、と風が吹いた。桜の花びらが一斉に舞い、ルキアの視界を淡く薄紅色で染める。二人の髪に、肩に、腕に、淡い欠片が降り積もる。そのままギンは両腕を伸ばすと、ルキアの華奢な肩を抱いた。ギンの袖から、はらりはらりと桜がこぼれる。ルキアの目には、男の羽織の白と、桜の薄紅色しか映らない。
―囚ワレル
着物を通して伝わる男の体温と降り積もる桜の中で、ルキアは次第に全てがたゆたうようにぼやけてくるのを感じた。埋もれていくように、眠るように。何もかもがうっとりと柔らかで、夢か現かも分からなくなってくる。物憂いままに頭を持ち上げて男の顔を見つめると、男もまた、その細い瞳に陶然とした光を宿して見つめ返した。
―桜ノ木ノ下ニハ…
降りしきる花弁に覆われるように、やがて二人の姿は見えなくなった。
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