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真夜中の散歩者





首都の中心にそびえ立つその建物は、人々に「始末屋」とも「葬儀屋」とも呼ばれていた。
その建物内の奥にある自分の席で、ルキアはPC端末の画面を見つめていた。
夜でも事件は起きる、というよりむしろ夜のほうが事件は多いので、周りの人は出払っていて、この部屋に残っているのはルキア一人きりだ。このところ現場に出ずっぱりだったから、こうして篭っていられるのは有難かった。
ルキアは少し大きな椅子の背もたれに身体を預け、薄暗い部屋で画面の文字列を追うことに集中していた。


不意に部屋の入り口で、がり、と下駄の歯の音がして、ルキアは眉間のしわを深くした。
読んでいた文面から視線も外さないまま、背後の入り口に向かって、捨てるように言う。
「インターホンくらい押せ、と言っているだろう」
下駄の音だ、と分かった時点で、誰が来たのか見当はついていた。
この施設には虹彩認識のインターホンと赤外線カメラがあるが、この男はいつもセキュリティをするりと潜り抜けて、この部屋までやってくるのだった。


しかし、入り口から返事はなかった。開け放たれたドアからわずかに入る風に、血の匂いが混じる。ルキアは怪訝そうに目を細め、椅子をくるりと回して入り口を向いた。
真っ暗な廊下を背にして、作務衣姿の男が立っていた。ゆらりと立ち尽くした男は、うつろな視線をルキアに向けて、うめくように呟いた。
「―朽木サン」
そのまま下駄の音を響かせて、ルキアに近寄る。
「ください」
真っ青になった唇の端から、一筋の血が流れている。頬には裂傷ができ、だらりと下がった両腕には、もはや血の気がない。
「近づくな、浦原」
慌てることもなく、固い声でルキアは告げた。浦原がこんな姿でやってくるのは、今夜が初めてではない。何が目的か、その見当もついていた。
「貴女が良いんスよ」
がりり、と引きずるように足を運んで、一歩一歩と浦原が進む。その両目は生気を失ってはいるが、しっかりとルキアに据えられていた。
「貴女でないと―」
最後まで聞かず、ルキアは座ったまま傍らに置いていた銃を手にすると、ためらうことなく浦原の心臓へと向けた。
「止まれ、死にぞこないめ」




巷にあふれる、半死半生の人間アンデッドによる犯罪。
その犯罪を止めるべく、彼らの生態を明らかにするために、自らがに半死半生なった酔狂な科学者、それがこの男だ。
自らが実験台になって判明したことの一つ。それは、定期的な“食事”が必要、ということだった。“食事”を怠ると、半死半生のバランスが崩れ、細胞は一気に死に向かう。筋肉、内臓、皮膚、あらゆるものが壊死し、血を流し、死んでゆくのだ。
“食料”は、生身の人間だった。それは血液を始めとする体液であったり、肉であったり、生気であったりした。半死半生たちが生きるために“食料”を求めた結果、あらゆる場所で人が襲われ、食われる事態が発生しているのだ。
その解決のために設立されたのがこの組織であり、集められたのが「始末屋」としての戦闘員だった。ルキアが就任して数年経つが、今でも事件が減る気配はない。




突きつけられた銃のわずか手前で、浦原は足を止めた。蛍光灯の光が、銃身を鈍く照らす。
「貴様、いつか捕らえられるぞ」
「いつか誰かに裂かれ、壊されるなら、貴女が殺して下さい」
かすれた静かな声が、なんでもないことのように告げる。
「ふざけるな、浦原」
「アタシは本気です」
ルキアの銃口は微動だにしない。これまで多くの修羅場を潜り抜けたルキアにとって、半死半生に銃を向けるなど、容易いことだ。
「なぜ私がそこまで引き受けねばならんのだ」
「この実験を知ってるのは、貴女だけっス」
かつてはこの組織の異なる部門で、共に半死半生の事件を追っていたのだ。浦原が自身を実験台にし、姿を隠して私的に事件を追うようになって、数ヶ月が経つ。どう知り得ているのか分からないが、ルキアが一人きりになった時を選んで、浦原は現れる。
「ならば他の者にも明かせ」
「必要ありません」
「なぜだ」
「貴女が私の生き方を知ってくれれば、それで十分ス」


一切のためらいのないその言葉に、ルキアは次の言葉を飲み込んだ。
こうして向かい合っている間にも、浦原の肌には赤黒い痣がじわりと浮かび、その身体が死に向かっていることが分かる。今、浦原の肉体は、明らかに死の間際にあった。
死なないために、死なせないために、死の世界に足を踏み入れる。その、狂っているともいえる思考回路には、ルキアには理解しがたい深い闇が横たわる。
その闇に入り、死の淵を目の当たりにしながら、こんなにも澄んだ言葉を告げるのか。


ルキアが息を飲んだその隙を狙って、浦原が一歩、踏み出した。しまった、とルキアが思う間もなく、間合いを詰める。思ってもいない素早さでルキアの手を払い、銃を叩き落すと、右手で顎をわしづかみにする。
「っこの、人でなし…っ」
ルキアの悪態が、かさついた唇で強引に塞がれる。
その皮膚の冷たさにびくりと身体を震わせ、ルキアは浦原の胸を押しのけようと懸命に抵抗する。しかし飢えた男の身体など、動かせるはずもない。
「ん、んん…っ」
口の中に、鉄の味が混じる。舌を絡め取り、唾液を吸い、浦原は動物のように荒々しくルキアの口内をむさぼった。
「―っはぁっ、はぁっ」
目の端に涙を溜めて、唇をぬぐいながら、ルキアは浦原を睨みつけた。
「貴様、手加減というものを知らんのかっ」
「やだなぁ、これでも手加減してるんスよ」
にやりと口角を上げた浦原の顔には、先ほどの裂傷も痣もない。生き生きとしたその表情は、先ほどと同一人物とはとても思えない。


しかし、それが彼らの性質だ。生身の肉も血液も奪うことを拒んだこの科学者は、ルキアの生気を“食料”と定めたのだ。
力を取り戻した武骨な指先が、するりとルキアの顎をなぞり、唇をたどる。
「本当は、もっと欲しい」
間近で囁く低い声に、ぞくりと背筋が粟立つ。それが恐怖なのか別の感情なのか。混乱した思考を振り払い、薄茶色の瞳が暗く笑うのを見つめながら、ルキアは精一杯の虚勢を張った。
「こんなの、許されないことくらい、分かっているだろう!」
ぱしりと手を払い、椅子から立ち上がる。そんな悪あがきを嗤うように、浦原はちろりと舌なめずりをした。
「何をそう騒ぐんスか。これから、愉悦の時間が来るというのに」
場を離れようとしたルキアの前に、浦原の大きな体が立ちふさがる。一歩、踏み寄られて、思わず後ずさる。また一歩近づかれて後退したルキアは、椅子の前に再び戻されていた。
す、と伸ばされた浦原の腕に、びくりと体が反応する。作務衣からのぞく、意外に筋肉質な腕は、ルキアの顔の横を過ぎて椅子の背へと向かう。
ぎし、と音を立てて、浦原が椅子の背に手をかける。すぐ目の前に、乱れた作務衣の胸元がある。ルキアが抵抗した跡だろう、鎖骨下の肌が、ほの赤く擦れている。遠くでサイレンの音が響いているが、この部屋に人が戻る気配はなく、ただ張り詰めた空気だけが満ちている。
気圧されたルキアは、椅子にすとんと腰を落とした。覆いかぶさるようにルキアを見下ろす両目は、獲物を見つけた半死半生の、獣のようなそれだ。


「残さず漏らさず、よく味わって――」


転がすような響きが、ルキアの体に熱の予感を呼び起こす。こくりと唾を飲み込んだ喉元に、浦原の指が触れる。思わず息が漏れそうになり、ぎゅっと目をつむる。


「いただきます」












ゾンビ状態の浦原(扉絵)があまりにもエロかったので、設定に使ってみました。

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