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絆創膏





ゆらりと立ち上る湯気に包まれて、ルキアはほうっと溜息をついた。
現世で義骸に入って以来、浦原の家で風呂を借りる習慣ができた。風呂に入っている間も、虚がやってこないとも限らないのだけど、この時間だけが唯一、ゆっくりとできる時間だった。
浴槽の中で、ルキアはゆっくりと膝を曲げ、そしてまたゆっくりと伸ばす。関節の動きはまだ十分とは言えないが、こうやって温かいお湯に浸っていると、体の硬さが緩んでいくような気がする。
冬になって、風呂の湯は少しだけ熱めになった。
この後、寒い中を帰ってゆくルキアを気づかってくれているのだろう。それがテッサイなのか、浦原なのかは分からないけれど。




「っつ!」
突然、鋭い痛みを感じて、ルキアはお湯の中に沈んでいる自分の足を見た。いつ作ってしまったのか、膝頭に小さな切り傷があった。紙で裂いたような、細い傷からじわりと血が滲んでいる。
そっと指で押さえると、痛みは徐々に和らいでいった。



浦原が、この“指”になってくれるかもしれない、と夢想した時があった。



海燕の死、義兄との埋まらない溝、離れていった幼馴染、いつまでたっても昇進できない己の非力。
それら全てをかなぐり捨てるように、振り向くことなく一人、現世へとやってきた。しかし過去を全て覆い隠すような仮面を被っていても、ふとした時に思いがけない拍子で仮面ははがされ、まだ膿みも癒えない生傷はずくりと痛んだ。
そんな時、必ずといっていいほど近くにいたのが、浦原だった。

なぜ死神のことを知っているのか。
なぜ自分の前に姿を現したのか。
謎ばかりをまとったこの男に、気を許してはいけないと警戒しながら、少しの気遣いにもほっと安心する自分がいた。
そんな時、ほんの少しだけ、隠していた傷が覆い隠され、癒えるような気がするのだ。
この男なら癒してくれるかもしれない、と、文字通りに夢を見ていたのだ。




ふとお湯の中の膝頭に目をやって、ルキアは思考を止めた。
押さえすぎたのだろう。小さな傷からは先ほどよりもはっきりと、赤い血が滲みだしていた。
なんとなく嫌な思いに襲われて、ルキアは形の良い眉をしかめた。

手早く体を拭き、用意していた服に着替える。しんと冷えた廊下を歩いているうちに、少しずつ、指先から緊張感が戻ってくる。
奥の私室の障子を開けると、浦原は部屋のただなかに立ったまま、何か冊子を読んでいるところだった。
「浦原、帰る」
部屋には入らず、硬い声で告げた。浦原はルキアの態度に気づいているのかいないのか、軽い口調で振り返った。
「あら?お茶でもどうです?」
「いや、いい」
「せめて髪を乾かして行ったらどうです?」
「…そうだな。乾かして帰る」
「―どうかしたんスか?」
浦原が、ほんの少しだけ目を細める。こうした仕草をする時の浦原を、ルキアは警戒していた。
「…なんでもない」
そう言って踵を返したルキアの行く手を、墨色の半纏の袖がすばやく遮った。ばさりと音を立てて、足元に冊子が転がる。
「なんでもないって目じゃ、ないでしょ」
いつもより少し低い声が、ルキアを動けなくさせる。傍らに立ちふさがる大きな体が、じっとルキアをうかがっている気配があった。
「血の匂いがする」
浦原はゆっくりと腰を落とすと、ルキアの膝にうっすらと滲む傷を見つめた。
「じき収まる」
そんな言葉でこの男が納得するはずがない、と分かっていながら、ルキアの言葉はさらに硬くなる。
「構うな、浦は―」
「じゃ、こうしましょ。アタシが貴女の絆創膏になりましょ」

浦原は静かに言うと、膝の裏にそっと手を添え、膝頭の傷にそっと唇を押し当てた。弾力のある舌が、ぞわりと傷口をなぞる。
膝に触れる生温かさに、びくりと体が震える。
ゆるりと、男の気遣いが無遠慮に心に入り込む。




この言葉を、もっと早く聞きたかった。
もっと早く欲しかった。
例え、意味は違うとしても。




浦原の頭を、上から見つめる。
色素の薄い、ぱさぱさと癖のある髪。僅かに漂う煙草の香り。着物の間から覗く、生身の肌。

「―朽木サン」
ふいに顔を上げた浦原と、間近で双眸がかち合う。
ルキアは突然のことに視線をそらすこともできず、浦原の目を真っ直ぐに見たまま、次の言葉を待った。
琥珀色の瞳は、悲しそうで、冷たくて、怒っているようで、そしてあたたかくて、いったい何を伝えようとしているのか分からなくて、いつもルキアを戸惑わせる。
笑いもせず、用意していたかのように躊躇いもなく、浦原はゆっくりと口を開いた。
「手当てが必要な時は、いつでも言って下さい」
大きな右手は、ルキアの膝に添えられたままだった。足先はとうに冷え切ったのに、怪我した膝頭だけがじんと熱い。
「朽木サン?」
返事をしないルキアに、浦原の眼差しが微かに揺れる。じわり、と目頭が熱くなりそうになって、ルキアは慌てて目元に力を入れた。目の前の男はまだ、ルキアを見上げている。
「―浦原」
「はい」
一度、奥歯を硬く噛みしめてから、ルキアは口を開いた。
「…手当てをしてくれ」
「もちろん」



浦原は少しだけ寂しそうに笑うと、大きな腕を差し伸ばし、ゆっくりとルキアを抱き締めた。
互いの傷を、重ねるように。











初期の、まだルキアが義骸に入っていたころの話です。


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