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こんにちは、赤ちゃん。後編





※捏造設定を含みます。OKな方のみご覧下さい。












それからも、阿近の日常は忙殺された。
「阿近さん、このデータの整理、お願いします」
「おい阿近、13番のサンプルを持ってき給え」
「阿近!なんやその言い方は!!」
それでも、傍らには常に、赤ん坊の姿があった。忙しく、ぶつくさ言いながらも、阿近はルキアの面倒を見ていたのだ。




随分と経った、ある日。
解剖台で小さな生物を切り開いていた阿近は、自分の作業に没頭していた。近くの台の上に赤ん坊を乗せていることは、もうとっくに忘れている。
どれくらい時間が経ったかも忘れてしまった頃―
突然、背後で大きな声が上がった。もちろん、気にせずに小刀を動かし続ける。けれどいくら経っても、その大声は止むことはなく、研究室に響き渡り続ける。
うるさいな、と思って阿近が声のする方を見ると、一人の研究員が赤ん坊のルキアの腕を持ち上げている。
顔を真っ赤にして、涙をぽろぽろと流し、ルキアは泣き叫んでいた。当の研究員は全く気にしていない様子だが、阿近は実験中は静かなほうがいい。
このままでは実験が続けられない。うるさいから止めろ、と阿近が男に言おうとした時。


「うわああああああんっあこぉーん」


その場にいた者が、一斉に振り向いた。
「え?」
ひよ里が、つかつかと歩み寄ってくる。
「い、いま名前呼んだやろ!?」
「…知らん」
「いや、いま『阿近』って言うたやろ!?」
「…うるさい」
阿近は手にしていた小刀を放り出し、ひょいとルキアを抱えた。そして目の前に立っているひよ里を押しのけると、不機嫌そうな顔のまま、すたすたと部屋を出て行った。




ぱたん、と自室の扉を閉める。
小さな身体を抱えて目の前にぶら下げると、阿近はルキアをにらみつけた。
「だから、人前で名前を呼ぶなと言っただろう」
ルキアはきょとんとしたまま、阿近を見つめている。阿近はちっと舌打ちをした。
「ぎゃーぎゃー騒がれて面倒臭い」
遊んでもらっていると思ったのか、ルキアは笑って手足をばたつかせる。
「あこん」
「何だ」
「あおん」
「…」
「むまーぶーばー」
訳のわからない言葉を言いながら笑う姿を見ていると、腹を立てているのが馬鹿らしくて、ぐったりと脱力してしまう。
ぺたぺたと額を叩かれながら、阿近はルキアをじっとりと睨みつけた。数十年後、この真っ白な額に角が生えてくるなんて、二人とも想像すらしていない。
「覚えてろよ、ルキア」
温かな手の感触を額に感じながら、阿近は苦々しく呟いた。
「お前が大きくなったら、たっぷりいじめ倒すからな」








ちなみに。
その一週間後、赤ん坊のルキアは、また一つ新しい言葉を覚えた。
「はーいルキアちゃん、おやつですよー」
現世で買ってきたという麩菓子を持って、浦原がルキアを覗き込む。むっちゃむっちゃと音をたて、麩菓子を口いっぱいに頬張ったルキアを、ひよ里が不安げに見つめた。
「喜助。そんなん、食べさせてええんか?」
「いいんじゃないっスか?嬉しそうだし」
もぐもぐと小さな口を動かしながら、まだ飲み込んでもいないまま、ルキアはもう一つちょうだいとばかりに両手を差し出して、喜助を見つめた。そして。


「きちゅけ!」


でれ、と浦原の顔が崩れるのが、ひよ里が見なくても気配で分かった。
「聞きました!?喜助って言いましたよ!」
「何でや!何で私の名前は呼ばへんのや!」
「いやぁ、人徳っスかねぇ」
「なんやそれ、納得いかへん!」
へらへらと笑って、浦原はルキアを高く抱え上げた。阿近がしっかりと育ててくれているおかげで、ここに連れてきたときよりも随分と重くなった。
「この子はきっと、美人になりますよー」
きゃっきゃと声を上げるあどけない笑顔を、浦原はいつまでも眺めていた。








そう遠くないうちに、別れがくることを予感しながら。










ここまで捏造にお付き合いいただき、ありがとうございました。「きちゅけ!」が言わせたかっただけです…

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