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愛しい君へ





「おや、今日の夜勤は朽木か?」



突然、頭上から声が降ってきて、ルキアはびくりと顔を上げた。
「浮竹隊長!」
いつの間にか浮竹が背後にいて、書類を書く自分の手元を覗き込んでいた。
ルキアは慌てて筆を置くと、居ずまいを正した。にこにこと笑ったままの浮竹の顔を見上げて、ふわりと表情を緩めたが、その目には不安げな色がちらりと宿る。
「隊長、お加減でも?」
「いや、ちょっと水を飲みに起きただけさ」
浮竹は懐手をしたまま、ルキアのそばに腰を下ろす。
「一人か?」
「他の三名は見回りに行きました」
ふと見ると、ルキアが座っている文机の隣の窓が開け放たれている。夜明け前の景色は薄暗く、遠くに見える山並みは黒々とそびえ立っているが、山の向こうがうっすらと薄桃色に染まり、稜線がぼんやりと金色に光っている。
「もうすぐ夜が明けるな」
「はい」
何かとても大切なことを伝えるように、ルキアは言葉をつないだ。
「日が昇るまでの今の時間が、私はとても好きです」




浮竹は静かな思いで部下の横顔を見つめた。
その瞳はある時は陽射しをたたえ、ある時は斜陽を抱き、ある時は暗闇を孕む。
しかしこうして夜明けに包まれた姿を見ていると、その夜明けの空の色こそが、ルキアの瞳の色であるとも思えた。






「こういう時間もいいものだな」
互いに目を合わせて、微笑みあう。ルキアは景色に視線を戻すと、ふぅ、と息を吐いてぽつりと呟いた。
「浮竹隊長がいつもおそばにいて下さったらいいのに」
そう呟いて、自分が言ったことの意味に気づいた。
「朽木、お前…」
「あ、いえ、これはっ…そんな深い意味ではなくて、隊長と一緒だと気を張らずにいられる、というか」
「そうだったのか…」
「あの、いえ、そうではなくて、おそばにいるとほっとする、というか」
「ほっとする…」
「ですから、あの、浮竹隊長のおそばがいい、というか」
「えーとそれは…」
言葉を重ねようとすればするほど、事態はどんどん悪化していく。二人は顔を真っ赤に染めたまま、落ち着かなく視線をさまよわせた。静かな室内に、気まずい沈黙が流れる。
そうこうしているうちに、辺りは少しずつ夜明けの明るさに包まれ始めた。朝日はまだ見えないが、少しずつ青みを増す空は清々しさに満ち、山の稜線には太陽の気配が近い。
気の早い鳥たちが、そこここでさえずり始めた。




「あの、そのっ」
「えーと、うん。その、なんだな」
浮竹は軽く咳払いをすると、意を決したようにルキアの方に向き直った。
「朽木」
その真剣な表情に、思わずルキアの背筋が伸びる。
「お前が許してくれるのなら、俺はいつでもお前のそばにいるぞ」
「それは―」







ぴん、と空気が張り詰めた。
続きの言葉を確認したほうがいいのか、そもそも何と聞けばいいのか、勘違いだったら笑われはしないだろうか。
ルキアの頭は目まぐるしく動くが、考えようとすればするほど頭の中は真っ白になってゆく。
張り詰めた空気の中で互いの期待と不安がどんどんと膨らんでいき、膨らみきってもう飽和するかと思われた矢先―
浮竹の器官がごぼりと不快な音を立てた。
「っ…浮竹隊長っ!」
大きな体を曲げて、浮竹が盛大に咳き込む。その広い背中に手を当て、ゆっくりとさすりながらルキアは苦笑した。
「そのためには、もう少し丈夫になっていただかなければいけませんね」
手のひらに、浮竹の肺の雑音が伝わってくる。苦しそうに曲げた浮竹の体はいつもよりずっと小さく、まるで赤子のように思えて、切なかった。







東の空が白く光り、山の稜線が眩しく輝いたかと思うと、ゆっくりと真っ白な光の塊がこぼれはじめた。
二人はそっと互いの手を取って、東の空へ目をやった。射るような光に、思わず目を細める。








あと何度、この朝日を見ることができるだろうか
あとどれだけ、君と一緒にいられるだろうか




でも願わくば



最期のその時に呟く言葉が
君の名前でありますように











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