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サクリファイス





「なんつー顔してんですか」



突然、声をかけられて浮竹は廊下を振り向いた。
今朝はいくらか体調のいい浮竹は、雨乾堂の廊下の柱に寄りかかり、隊舎の庭で行われている部下の修練を見ていた。今日は鬼道の訓練らしく、十数人の部下たちは思い思いの詠唱を口にしている。



声の主は優秀で明るい副隊長で、おそらく修練の指導中に、浮竹の姿を見つけてやってきたのだろう。
だがその顔には呆れたような、哀れむような色がありありと浮かんでいる。一体どんな顔をしていたのかは知らないが、どうやらあまりいい顔ではなかったようだ。
「そんな顔するくらいだったら、近くに行けばいいじゃないっスか」
浮竹はゆっくりと頭を降った。
「ここで眺めているのがいいんだ」
真っ白な髪が、風に揺られてさらりと流れる。海燕は呆れたようにため息をつくと、腕組みをしたまま廊下の手すりに寄りかかった。




「そうやって、死ぬまでずっと見守る気ですか?」




その声はふざけてはいなかった。
振り向いた浮竹の視線の先で、素直な海燕の目は、少しだけ怒気をはらんでいた。
「あいつが他の男と恋に落ちて、そいつと結婚することになったり、他の男に抱かれたりしても、隊長はずっと見守る気ですか?」



カコン、と獅子脅しの音が響く。
池の鯉が跳ねる水音が、緩慢に耳に届いた。










初めから分かっていた。
副隊長が言っているのは、部下の修練のことではない。
この男は知っているのだ。
浮竹がその病弱な胸に抱いている思いを。










浮竹は漂うように、ゆっくりと庭へ視線を戻した。
「別に俺はそれでも構わないんだ」
彼女が真剣な眼差しで詠唱する姿に、自然と顔がほころぶ。
「俺を愛してくれとは言わないさ。朽木が幸せであれば、それで俺は満足だ」



何度もこうしてここに立ち、その姿を眺めているだけの自分を、哀れと言う人もいるだろう。
昔なじみの京楽には、とうに匙を投げられた。聡明な卯乃花は何も言わないが、いつも意味ありげな微笑みをよこしてくる。
だが―
「ただ時々、病弱で頼りない上司がいたな、と思い出してくれたらそれでいい」






それでもいいと思えてしまうのは、
歳を重ねてしまったせいなのか、
もう自分でも気づかないくらい頑固なやせ我慢なのか。



浮竹は随分昔に、答えを出すことを諦めた。
答えが出たところで、そう先の長くない自分が彼女にしてあげられることなど、知れている。






背後の部下から返事はなかった。
怪訝に思って振り向くと、その顔にはどうしたらいいのか分からない、なんて仕方のない上司だろう、という思いがそのまま出ていて、それがとてもこの素直な部下らしくて、浮竹は思わず苦笑した。
「そういう顔をするなよ」
海燕は大袈裟に溜息をついてみせた。
「つくづく馬鹿ですね、隊長って」
「はっきり言うなぁ…」
海燕は浮竹の隣に並ぶと、少しだけ声を低めた。
「じゃあ例えば、その相手の男が俺であっても?」
「―それは嫌だ」
「なんスか、俺ってそんなに信用ないんスか」
「そもそもお前は結婚してるだろう」
「そりゃそうですけど」
「そんな不純なことは認めない」
「どっちが不純ですか」
「お、俺のどこが不純なんだ!?」
「つーか、不毛ですね」
「ふも…」



絶句した浮竹をよそに、海燕は慌しく草履を履くと庭へと飛び降りていった。
部下たちから歓声が上がる。無数のその視線が浮竹の姿を見つけて、さらに歓声は大きくなる。
浮竹はゆっくりと手を振る。
大勢の中の、ただ一人へ向けて。
ただその、弾けるような笑顔が見たくて。












たとえその手を握るのが俺ではなくても



あなたが笑えば
この世界は美しい














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