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堕落論 彼岸





どこをどう歩いたのか覚えていない。
気が付くと、取り囲むように数人の男が自分を見下ろし、その油切った顔に下卑た笑いを浮かべていた。
逃げ出そうにも足がだるくて動かない。
声を張り上げれば誰か来てくれるかもしれないが、声を出すことも億劫だ。
あぁ何もかもが面倒だ。




街灯の黄色い明かりが濃い影を作る。
何か話しかけられているようだが、その言葉もうまく頭に入らない。
つま先が冷たい。
ぬかるみでも踏んだのだろうか、足袋の足先が塗れている。
指先がかじかんでいる。
早春の夜は、全てのものからゆっくりと熱を奪ってゆく。






一人の男が腕を掴んできた。
あぁ面倒だ。
鬼道でどうにかできないだろうか、と思ったその時、人垣が割れて、一人の男が現れた。
男たちが慌てている。一斉に刀の柄に手をかける。



逆光で男の顔はよく見えない。
黒く短い髪が、街灯の明かりに縁取られている。死覇装の袖に、副官の腕章が光る。何か、言っている。








いつの間にか、この男以外、誰もいなくなっていた。
そして男はがしがしと頭を掻くと、こう言ったのだ。






「こんな所で何してんだ、朽木」






―あ、


この口調。
照れたような、呆れたような、それでいて心配そうな、優しいこの声。




男は近づくと、耳元で低く呟いた。
「自分を捨てるなら、他の奴じゃなく俺にしろよ」




やっぱりこの人は言うのだ。
一人で逝くな、と。腕の中に預けろ、と。




「全て忘れさせてやる―保証するぜ」




体から力が抜ける。
会いたかった人。会いたくて、でも会えなかった人が目の前にいる。
あたたかい唇が、首筋に触れる。










「海燕どの―」










首筋をなぞる温度に、体中が震える。
夢か現か分からない。
ただ、この男の腕にすがりつきたい。あたたかさに触れていたい。
もう、離れたくない。



大きな手が私の体を優しく荒く包む。


夜が、壊れてゆく。










堕ちるなら
貴方と二人で
世の底まで














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