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堕落論 此岸





「おい、お前ら何してんだ」
声をかけると、男たちは慌てて俺の方を振り向いた。
「ひ、檜左木!?」




精霊廷の中心から遠く離れた夜の道。一人で巡回をしていた俺は、薄暗い路地に数人の男の姿を見つけた。
非番なのだろう、連中は趣味の悪い派手な着物を着ている。
男たちは石畳の片隅で、壁に向きあうように半円に立っていた。そして何かを見下ろしている。
男たちの体の隙間から、死覇装と細い手と、小さな足が見えた。
誰かが、囲まれている。



「てめぇには関係ねぇよ」
居直るように、正面にいた男が俺の前に立ちふさがった。風に乗って、酒の匂いが流れてくる。酔っぱらっているらしい。
一人一人の顔を順に見ると、学院で同期だった顔がいくつかあった。学院を卒業してからどこの隊で何をしているのか知らないが、もう名前を思い出すのも難しい。こんな所で酔ってたむろしているということは、要はその程度の奴ら、ということだ。



その時、男たちに取り囲まれている人物の顔が見えた。
街灯の明かりの影になってよく分からないが、あれは間違いなく―
「…朽木?」
男の肩越しに見える朽木は、片腕を掴まれている。だがそれを振り払う様子もなく、途方に暮れたように立ちつくしている。周りがこれだけざわついていても、気にもせずぼんやりと俯いている。
何かが、おかしい。



「てめぇには関係ねぇ」
目の前の男は、再度言った。俺は図体のでかいそいつを睨み返したまま、死覇装の袖を払い、斬魄刀の鍔に手をかけて、一歩踏み出した。
『今夜は冷えるよ』
心優しい隊長がそう言って、今夜は袖のあるものを着るよう勧めたからだ。慣れない衣擦れの感触が、両腕にまとわりつく。いつもの方が自分には合う、と思いながら親指で斬魄刀の鯉口を切った。
「そいつは俺の女だ。手ェ出すんなら斬るぜ」
無言のまま、ほんの少しだけ霊圧を放つ。びりびりと震える空気が心地良い。男たちの顔が青ざめていくのが、暗がりの中でもよくわかった。
「ひ…ひぃっ!!」
男たちは怖じ気ついたのか、蜘蛛の子を散らすように一目散に走り去った。あの程度の雑魚、追い払うのは何でもない。
酒の匂いだけは、それでもどんよりと留まっていた。




去ってゆく男たちの無様な姿を見送りながら、ふっと思った。
―俺の女、か。
そうでも言わないと口実がなかったとは言え、大胆なことを言ったもんだ。
明日になって、あいつらが言いふらさないことを祈るしかない。








男たちが去っても、ルキアはそこに立っていた。
ぼんやりとした表情のまま、虚空を見つめている。さっきの霊圧を感じていたのかいないのか、さして気にする様子もない。
修兵は怪訝に眉をひそめた。そして、あぁこのことか、と思い至った。






噂には聞いていた。
志波海燕副隊長が亡くなった後、ルキアがふらふらと街を歩いているのだ、と。
うつろな表情で、それでも足取りはしっかりとしながら、夜になるとまるで帰る場所をなくした虚のようにさまよい歩いている、と言うのだ。
朽木隊長が探し出し、連れて帰ったこともあるという。
ある時は幼馴染みの恋次がそれを見つけ、十三番隊の隊舎まで連れて行ったらしい。その様子を話した時の恋次の表情を思い浮かべて、修兵は一つ、ため息をついた。




まるで生気のない瞳。
人形のような細い手足。
ふわふわと漂う、おぼつかない視線。
自分を失った女というのは、とかく男の目を惹きやすい。






短い髪をがしがしと掻きながら、修兵はまた一つ、ため息をついた。
「こんな所で何してんだ、朽木」
びくりとルキアの体が反応し、おもむろに顔を上げる。硝子のような目が修兵を映していた。小さな口が、薄く開かれる。
片手を握って引き寄せると、抜け殻のような体は簡単に修兵の胸におさまった。
ぽんぽん、と背中を優しく叩く。品のいい、香の香りが鼻をくすぐる。背中を撫でようとした指先が、死覇装の下に淡く浮かぶ背骨を感じて、修兵はそっと息を飲んだ。
小さな体は思った以上に柔らかく、はかなげだった。








慰めよう、としただけだ。
少しでも正気に戻ってくれたら、と思っただけだ。


だがあまりの呆気なさに、修兵はぞくりと湧き立つのを隠すことができなかった。





―俺の女、か。








「何してんだ、朽木」
背中をゆっくりと撫でる。まるで幼子をあやすように両腕に包んでいると、ルキアの体に少しずつ力が戻ってくるのが分かった。修兵は少しだけ、声に力を込めた。
「自分を捨てるなら、他の奴じゃなく俺にしろよ」
ルキアが息をのむ気配があった。
「全て忘れさせてやる―保証するぜ」
ルキアが何か呟いたが、もう修兵の耳には届かない。




白い首筋に口づける。小さな声をあげて、ルキアの体が崩れ落ちる。崩れ落ちてしまうその間際に、修兵は細い腰を片腕で抱きかかえた。
首筋にゆっくりと舌を這わせる。耳元で、ルキアの上気した息づかいが聞こえる。
ルキアは拒まなかった。
潤んだ目は何かを探すかのように、一心に虚空を見つめていた。


ルキアの小さな手が、まさぐるように修兵の背中にしがみつく。
その力強さに、修兵の熱が弾けるように高まる。



夜が、深くなる。










堕ちるなら
君と二人で
世の底まで














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