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魔物遊戯






夜だというのに、その界隈は明るかった。


精霊廷一の歓楽街と呼ばれる街。
石畳の道には煌々と灯明が点り、道行く人々を照らしていた。道沿いにはたくさんの店が軒を連ね、少し開いた扉からは様々な音楽や怒号や嬌声が漏れ聞こえる。開いた扉をちらりと横目で覗くと、露出の高い服装をした女たちの姿が見えた。店先にはしどけなく着飾った女たちが立っていて、通りかかる男たちに声を掛けては、甘い声でじゃれあっている。そこかしこで、きんきんとした嬌声が飛び交う。
ゆらゆらとした明かりに照らされ、修兵とルキアは歩いていた。





この界隈に足を踏み入れた瞬間に、ルキアの表情は曇った。いかにも居心地悪そうに、うつむきがちに歩く。大きな瞳が、あからさまに警戒の色を帯びていた。
「だーかーらぁ!別に変なところじゃねーよ!」
「ですが檜左木殿、ここは、あの…」
「酒飲んで女の踊りを見るだけだよ」
「女…踊り?」
「舞妓とか芸妓とか聞いたことあるだろうが。お前に見せてやろうと思ったんだよ」





その言葉は嘘ではない。
この大きな通りから一歩入った所に、修兵の馴染みの店がある。この付近に多い店とは趣が違い、酒と芸妓の踊りを主にしている店だ。随分年上の先輩に教わった店だが、余計な詮索をしない接客が気に入って、一人でも通うようになったのだ。
何より酒が旨く、そして女たちに節度があった。女は嫌いではないが(むしろ好きだが)、気に入りもしない女にベタベタされるのは性に合わない。
先日もいつものようにふらりと一人でやって来たのだが、芸妓の踊りを見ていてふと、これをルキアに見せてやりたい、と思ったのだった。どこからそんな思いがわいてきたのかは自分でも分からなかった。自分のお気に入りの物を見せたがる、男の習性なのかもしれない。








路地に入り、長く垂れた紅花色ののれんを潜ると、早速番台の女が声をかけてきた。
「あらぁ旦那ァ、お久しぶりです」
「おう。座敷、空いてるか」
「ちょうど離れが空いてござんすよぅ」
勝手を知っている修兵は、草履を脱ぐとすたすたと廊下を進んでいく。ルキアもそれに倣い、草履を脱ぐと端に揃えて慌てて続いた。
「あら女連れでいらしたの?意地悪なひとォ」
番台の女が媚びるように言った。ルキアはくい、と修兵の着物を引く。今日の修兵は、死覇装ではなく濃紺の着流しだった。とはいってもいつもどおりに、両袖はなかったが。
「檜左木殿、ここにはよく来られるのですか?」
「たまにな」




離れは外廊下を幾つも曲がったところにあった。修兵は上座にしつらえた座布団にどかりと腰を下ろすと、ルキアを手招きして隣に座らせた。
部屋は眩しいくらいに豪奢な造りだった。金の屏風、朱の天井、黒壇の柱に繊細な細工の建具。壁には見事な織りの着物が掛けられ、そこここに立てられた燭台もまた、見事な装飾が施されていた。そうしてルキアが部屋の豪奢な様子に見とれていると、衣擦れの音がして女たちが膳と酒を運んでくる。あれよあれよという間に饗宴の仕度がなされた。






三味線の音が響く。二人の芸妓が、美しい着物をしゃなりと揺らしながら舞う。
何もかもがまばゆかった。出された料理も、普段屋敷で食べているものと遜色ないほど美味しく、上品なものだった。夢心地とはこういうことを言うのかもしれない、とくらくらする頭の中でルキアは思った。
修兵はそんなルキアの様子を満足げに見ながら、ゆっくりと酒を呑む。






ふと芸妓の一人がルキアに近寄り、その白い手を取った。立ち上がるように、と切れ長の目で促す。
「えっ…あ、でも私は…」
助けを求めるように修兵を見遣ったが、悠長に酒を呑んでいる男は、にやりと意地の悪い笑いを浮かべただけである。柔らかな力で引きずられるように立ち上がったルキアは、そのまま二人の芸妓の間に連れ出され、一緒に踊ることになった。










朽木家で教わったのか、それとも素養があるのか、ルキアの踊りはたどたどしいながらも様になっていた。見よう見まねで手をひるがえし、袖を揺らしては、右へ左へと回ってみせる。
行灯の周りで踊る女たちの姿は、ひらひらと袖が舞い、火と戯れる蝶のようでもある。
その蝶の群れの中で、ルキアの姿はやはり異彩を放っていた。何がどう違うのか、修兵はうまく言葉にすることができない。
だが強いて言えば―




―纏う空気が違いすぎる…




そう、その小さな体に纏う空気が違った。
普段から、ルキアのもつ雰囲気は他の女とは違ったが、今日ここで舞っているルキアはひときわ浮世離れしていた。
およそこの世のものではないような。
何か人ではないものを見ているような心地に陥らせる。








今日のルキアは、鹿の子色の着物を着ていた。藤の模様が施されたそれは、おそらく今という季節を考えてのものだろう。行灯の明かりに照らされて、藤の文様が砂金のようにきらめく。なによりも、華奢な造作の白い顔が蝋燭の明かりによく映えた。時折きらりと光を受ける紫紺の瞳が、はっとする鋭さで修兵の目を打つ。
一人の芸妓が、ふと修兵を見やった。
「いややわ、副隊長さん、ぽーっと見てはるわぁ」
そう言うと、袂の陰から修兵を睨み、おどけて見せる。ルキアも真似て袂を持ち上げると、その陰からちらりと修兵を睨んで見せた。



口元には、うっすらと笑いを浮かべたまま。










かたん、と乾いた音がして、膝が温かく濡れた。
辺りに酒の匂いが広がった。




手に持っていた猪口を落とした事にも気づかず、修兵はただ唖然と眺めた。









―なんだ、今見たのは…?









人ではない。
浮世のものでもない。
修兵の魂に踏み込み、心臓をわしづかみにし、力を狂わせ、だが決して触れることのできない何か。
恐ろしいほどに、美しく獰猛な―











隣に座り酌をしていた老妓が、さりげなく修兵の膝を拭きながら囁いた。
その声に、はっと我に返る。
「旦那」
「…あ」
「いい女だねぇ」
「だろ?」
「お気をつけあそばせ」
「…え?」
いつになく真面目な調子の老妓の声に、修兵は思わず聞き返した。老妓はルキアを見ながら、続ける。
「あたしは何万という女を見てきましたけどね、ありゃ魔物でござんすよ。そんじょそこらの一本よりタチが悪い」













―魔物。






そうか、魔物か。








老妓のその言葉は、あっさりと修兵の腑に落ちた。
新しく注がれた杯を勢いよく煽ると、その冷たい液体が再び体を目覚めさせる。自分を取り戻した修兵は、今度は炯炯とした目で杯を重ねる。元々酒には強いほうだが、酔いは全く回らなかった。その頭の中で、めまぐるしく計略が練られているとはルキアは思いもよらなかっただろう。



幽玄の明かりに照らされて、芸妓と魔物の舞はしばらく続いた。











帰る時間になっても、芸妓たちに気に入られたルキアはなかなか店を離れることを許されなかった。いつまでも引きとめようとする芸妓に囲まれて困り顔のルキアを見ながら、修兵は引き際を計る。
「常盤」
「はい、旦那」
常盤と呼ばれた、先ほどの老妓がかしこまった。
「俺は仕事柄、魔物は嫌いじゃねぇ。だが負けるのは御免だ。魔物に勝つにはどうしたらいい?」
常盤はやや頭を上げて、ちらりと修兵を見ると年増らしい老獪な笑いを浮かべた。


「魔物を力で抑えるか―


    ご自分も魔物になることでござんしょ」



「なるほど」















喰うか、喰われるか。








美しく儚げな面影に牙を隠す魔物と、強くしなやかな肢体に火を宿す魔物と。
















そんな命がけの遊戯ってのも、俺たちにお似合いだろう?













”一本”というのは、一人前の芸妓のことです。お線香一本が一人のお客さんと会う単位だったとか。
和風の風景とルキアが書きたかったんだいっ

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