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狂った引力





いつからこうなってしまったのだろう。








考えることはあまり得意ではない。
副隊長という立場上、頭を使わなければならない機会は多い。ずば抜けた霊力だけではなくその冷静な思考力で、この立場まで上ってきたのだという自負もある。しかし普段から、椅子に座って書物を読むよりも道場で稽古をしている方が性に合っていた。要は、隊務で思考力が働いたとしても、日常であれこれと考えることは向いていないのだろう。


だが、いつからこうなってしまったのだろう、と修兵は考えずにはいられない。




始めは、単なる出来心に過ぎなかった。
少しちょっかいを出して、からかってやろうと思っただけだった。放っておいても女から声のかかる修兵にとって、それはさして特別なことではない。




だが。
「最近、ちっとも来てくれないじゃない」
と馴染みの女にふくれっ面で愚痴られ、飲み屋の酌の女には
「どうしたのよ、ぼーっとして」
と真顔で心配され、挙句の果てには東仙隊長にまで
「君はここにいても、心はどこか他の所に行っているようだね」
と微笑みと共に言われ、初めて気がついたのだ。



己の頭の中に朽木ルキアが棲んでいる、ということに。






気づいてしまってからが、余計にタチが悪かった。
四大貴族の令嬢。
後輩の想い人。
自分の心の中に棲ませてはいけない存在だ、と考えれば考えるほど、ルキアの占める割合は増えていった。何もかもが空回りし、平素の生活をいつもどおりに繰り返すことすら躓くようになった。書類のミスが増え、道場への足も遠のき、会議に身が入らない。泥沼にずぶずぶと少しずつ埋もれていくような、焦りと絶望感に息苦しくなる。



「修兵、これを調べてきてくれないかい?」
と隊長が大霊書回廊へ使いに出したのは、それを察しての気遣いかもしれなかった。
手渡された書類を手に背の高い書架の間を歩いていると、いやに徒労感が増してくるのが分かった。薄暗く静かなこの部屋は、修兵の思考をより内側へ、より深みへと引きずり込み、気の優しい隊長には申し訳ないがあまりいいものではなかった。






芽生えてしまった感情に、死に物狂いで蓋をする。
なりふりは構わない。



しかし。
避ければ避けるほど、その姿が脳裏に浮かんで離れない。
蓋をしようと足掻けば足掻くほど、感情は暴れようとする。

滑稽だ―
まるで初めて女を知ったガキみてぇだ。
自嘲したところで事態が好転するわけもなく、泥沼はいっそう深く修兵を飲み込み、喉元まで埋まってしまうのも時間の問題かもしれない、と深く嘆息したその時。


「あの…檜左木副隊長殿…」
出し抜けに遠慮がちな声が耳に届いた。驚いて声のした方を見下ろすと、小柄な死神が立っていた。
「申し訳ありませぬが、そこの棚を見たいのですが…」
大きな灰紫の瞳、漆黒の髪。薄暗い書庫の中で、蝋蜜のような白い肌はそこだけ光をまとったように淡く光って見えた。
―朽木ルキア…!


「あっ…あぁ」
突然のことに反応できず、言葉も出ないまま慌てて半歩だけ身体をずらす。ルキアは空いた場所に身体を滑らすと、すぐに目当ての本を見つけ、白い指で音もなく取り出した。ちらりと修兵を見る。
「先ほどからずっとこの棚をご覧になっていますけど、何かお探しですか?」
「…ずっと?」
「えぇ、半刻ほど」
手元を見ると、隊長から頼まれた調べ物は一つも手をつけてはいなかった。呆けたように立ち尽くす自分の姿は、このきらきらとした瞳にはさぞかし奇異に映っただろう。
「あまり、調べものが進んでおられぬようですね。お手伝い致しましょうか?」
小首を傾げ、くすくすと楽しそうに笑う。書庫であることを意識してか、その声は大きくはなかったが、修兵の耳を打つには十分だった。そして修兵は思ってしまったのだ。
その小さな唇に触れたい、と。


「あーもう、くそっ」
がりがりと短髪の頭を掻く。



離れようとしても、どんなに離れようとしても引き寄せられていく。
身体が離れているときは思考が彼女を求めて彷徨い、その近くにいる時は何もかもが空っぽになり、ただ触れたいと思うのだ。


振り回されている
踊らされている
ならばいっそーと思ってしまうのは、あまりにも短絡的に過ぎるだろうか。



突然の悪態に驚いたルキアは、ぽかんと修兵を見上げている。修兵は身体の動くままに無防備なその両肩を掴むと、力を込めて本棚に押し付けた。
「なっ…!」
ルキアが驚きと痛みで、その端正な顔を顰める。静かな書庫に、ぎしりと本棚のひずむ音が響いた。
「何をっ…」
「お前のせいだ」
真正面から瞳を見つめ、低い声で告げる。泥沼に囚われたここ数日の苛立ちと混迷が、よく研ぎ澄まされた刃のようにルキアへと向かった。しかしルキアは少しも怯まず、その目を睨み返した。
「勝手なことを」
「お前のせいなんだよ」
「勝手に人のせいにしないでいただきたい」
毅然と睨みつけてくる紫色の瞳は、それだけで男を誘うということを、この女は知っているのだろうか。にやり、と修兵の口元が歪んだ。
「責任とってもらわねぇとな」
「え…」
両腕で華奢な肩を捉えたまま、壊れないようにそっと、優しく唇を重ねる。
「ん…っ」
ルキアが手にしていた紙の束が、ばさりと音を立てて散った。開けてはならない禁忌の扉を開けた、その宣告をするかのように、その音は二人の周りに大げさに響いた。細く小さな手が、精一杯に抗おうと修兵の胸を押すが、死神とはいえ女の細腕で退けられる身体ではない。次第に抗う力は弱くなり、その両腕からはじわりと力が抜けていく。
広く静かな回廊に、ただ二人。
ルキアの唇は想像通りに小さく、その柔らかな感触に修兵の背筋に痺れるような激流が走った。



ようやく唇を離すと、ルキアはいかにも慣れていない様子で、苦しそうに肩で息をしている。
―ずっと息を止めてたのか
くすりと修兵が笑うと、潤んだ瞳のまま睨みつけた。
「何が可笑しいのですっ」
「いや―これから俺が教えてやるよ。手取り足取り、な」
耳元で告げると、瞬く間にルキアの顔が朱に染まった。その頬に触れようと修兵が伸ばした手をするりと避けると、慌しく足元の紙を掻き集め、脱兎のごとく走り去って行った。残された手には、柔らかな温もりだけが名残惜しく残る。
ぱたぱたと遠ざかっていく足音を聞きながら、修兵は思った。
―これで泥沼から抜け出せる
と。罪悪の感情よりも、むしろ清々しさがあった。一切の迷いを払拭した心のうちは嘘のように軽く、ともすれば鼻歌すら歌い出しそうな気分だった。
初めからそうすれば良かったのだ。いったい似合いもしないことをして、何を迷っていたのだろう。








後に修兵は、この日のことを深く後悔するようになる。



一度触れた感覚は、そう簡単に忘れられるものではない。
その唇に、肌に再び触れたいと引き寄せられてゆく己の情欲に、再び泥沼の息苦しさを味わうとは思いもしなかったのである。



年始一つ目のupがムリヤリチューだなんて!大霊書回廊は妄想しやすい場所だと思う。

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