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禁じられた遊び





助けて助けて 高楼の姫を
助けて助けて 疾駆の狗を







窓から差し込む月の光が、辺りを青白く包む。
月の光に当たると気が触れると言ったのは古人の迷信だが、おそらく月明かりに狂気が宿るのではなく、月光の中ではあらゆるものがどことなく不安定な、それでいて静謐な妖しさを宿し、それが人の奥底に潜む狂気を引き出すのだろう。
見慣れた自室の、棚や畳、着物、そして布団までがまるで初めて見るもののようなよそよそしさを漂わせる。


恋次を見上げる紫紺の瞳は月明かりのなかで深淵を増し、まるで全てを見透かす水晶のように煌く。
―この透き通った瞳に、今の俺はどんなに醜く映っているだろう。
深海のような静けさのなかで、己だけが場違いの道化のようだ。早鐘のように打つ鼓動はしんと冷えた空気をかき乱し、ごくり、と唾を飲み込む音まであたりに響いてしまいそうだ。




「ルキア、戻るなら今のうちだぜ」
組み敷いた小さな体を見下ろせば、迷いの無い答えがすぐに返ってきた。
「進むも戻るも好きにするがいい」
「…どうでもいいってことかよ」
軽く舌打ちをして重ねた手を握り締めれば、白く細い指のあまりの儚さに心が震える。
「違う。恋次、私はお前を信じるよ」
大きな瞳が、揺らぐことなく真っ直ぐに恋次を見上げる。濡れた唇が、まるで別の生き物のように蠢く。
「お前に委ねる、恋次」
さらりと漆黒の髪を撫でれば、その小さな頭は恋次の手のひらの中に容易く納まってしまう。








その身体の小ささは流魂街に居た頃から少しも変わらない。初めて会った頃からルキアの骨格は華奢で、いま人並み以上に成長した恋次からすれば、小さな手足はまるで赤子のようだ。
しかし年を重ねるごとに白い肌の下には密やかな熱が宿り、割れた柘榴が紅褐色の果実を覗かせるように、思いがけない拍子にぞっとするような色気を放つようになった。
例えば、遠くを見つめている時。
甘味をほおばる時。
花を手折る時。
寂しげに笑う時。
そして今日のような、月夜の晩。








守るべき仲間だったルキアが、恋次にとって特別な存在になったのがどういうきっかけだったかは覚えていない。ただ、ある日ルキアを見ていた恋次は強烈に思ったのだ。




欲しい、と。




ただ強く、そう思った。以来、仲間としての関係を変わりなく保ちながら、恋次の中では常に飢餓の嵐が吹き荒れていた。
欲しい。
この両腕に、ただ、俺だけのものとして。




ルキア本人は全く気づいていないのだが、ルキアに想いを寄せる男は多い。しばらく見ればすぐ分かることだ。声を掛けることができないだけで、遠巻きにルキアを見つめている男なんていくらでもいる。
そんな連中を牽制しながら、害の無い幼馴染として、気安く接することのできる唯一の存在としてい続けることが、恋次が自分自身に課した役割だった。
しかしそれは次第に、非常な忍耐を強いる無謀な苦行となりつつあった。




考えてみればいたって当然なことで、近くにいればいるほどルキアのくるくると変わる表情に、声に、触れることになるのだ。
ルキアは、ますます安心しきって無防備な表情を恋次に見せる。
そして無邪気な振る舞いの中に、恋次は見つけてしまう。
―禁断の果実の甘い香りを。








そうして飢餓は募る。
声なき声で、身体を食い破るほど凶暴なまでに叫ぶ。
ルキアを、この手に。
今すぐこの腕の中に。
それが叶うのならば、全てを捨てても構わないと思った。




そして今、その存在が己の両腕の中にある。








「れ…んっ…」
抱きしめた華奢な身体は、恋次がほんの少し力を込めただけで、壊れそうに軋む。
だが、抑えることなどできない。
飢えた動物のように、恋次の全てが溢れるようにルキアへと向う。




―俺は、こいつを壊すかもしれない。
頭の隅で、一人の自分の声が警報のように鳴り響く。




―この腕の中で壊してしまえば、ずっと自分のもの。
―二度とこの手を離れることはなくなる。
と、もう一人の自分がささやく。




噛み付くように、その細い首筋に口付ける。
耳元で響いたいつもより高いかすれ声は、初めて知るルキアの“女”の声だ。
鼓膜が震える。
指先が慄く。
体中が熱くなる。


全てを、忘れる。












ゆっくりと夜は更けてゆく。
狂おしいほどの情念を、その闇に隠しながら。









助けて助けて 高楼の姫を
助けて助けて 疾駆の狗を
この紅い牙は六尺二寸
君を護るには小さすぎる
君に触れるには餓えすぎた











六尺二寸は190cmくらい。

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