文章目次

この想いを止めるな





石田雨竜は灰色の空を仰いで、小さくため息をついた。
空気はしんと冷え、マフラーをしっかりと巻き直しても、刺すような風が首筋に入ってくる。
生徒会の会議がある日は、いつも帰りが遅い。今日も既に日は暮れて、分厚い雲の合間から、漆黒の冬空と小さな星の瞬きが見えている。
昨日から時折、ちらちらと雪が降っていた。予報では今夜も降ると言う。白いものが舞い始めるまで、そう時間はかからないだろう。
こういう日には決まって、彼女がやってくる。




マンションの扉の鍵を閉め、真っ暗なワンルームの部屋に入る。窓から射す街灯の光をたよりに、ストーブのスイッチを入れる。
すぐに暖かい風が吹き出し、雨竜はその吹き出し口で冷えた両手を炙った。


考えるともなしに、今日の学校での会話が頭を巡る。
隣の席で、数人の男子が騒いでいた。やれ隣のクラスの誰々が可愛い、下の学年の誰々には彼氏がいるらしい、誰々はお前のことが好きなんじゃないか、等々。彼らの話すことと言えば、女子のことかゲームのことか、大抵その2つだ。
お気楽なものだ、と雨竜は皮肉まじりにため息をついた。
今この世界は生と死の均衡がせめぎ合い、崩壊するかどうかの瀬戸際にいるのに、彼らは恋に落ちることばかりを考えている。最後の滅却師として、大きな岐路に立たされている自分とは、関心も覚悟もまるで違うのだ。


―簡単に、恋に落ちたりしない。

「どうかしたのか?」
出し抜けに、すぐそばで声がして、雨竜は思わずのけぞった。
「うわっ」
隣で、死覇装姿の小柄な女性が、首をかしげていた。
「く、朽木さん!」
雨竜はストーブの前から少し体をずらしながら、顔をしかめた。
「突然現れるのは、止めてくれないかな。あまり良い趣味とは―」
非難がましく言った雨竜を遮って、ルキアは少しだけ口を尖らせた。
「ちゃんと窓を叩いたぞ。いつまで待っても気付いてくれぬから、入ってきたのだ」
迂闊だった。ぼんやりしていて、いつもなら気付く音にも気づかなかった。
「部屋は真っ暗だし、座ったまま寝ているのかと思ったのだ」
「それはすまなかった。ちょっと考え事を―」
「で、何かあったのか?」
雨竜はストーブの前に手を差し出したまま、少し考えて、そっぽを向いた。
「朽木さんには、関係ない話さ」
「それもそうだな」
あっさりと引き下がったルキアは、雨竜と並んで腰を下ろすと、ストーブの吹き出し口に手をかざした。
「暖かいな、この部屋は」
ぽつり、と呟いた声が、まだ暖まりきっていない部屋に響く。
ルキアの小さな指先が、赤く冷えていた。真っ黒な死覇装は冬の空気をまとったままで、雨竜の片頬にひやりとした冷気が届く。襟足を切って露わになった首筋は、はっとするくらいに細く、ひどく寒そうだった。
その姿を横目で見ながら、雨竜は大きく息を吸った。




黒崎一護が死神の力をなくしてからも、ルキアは任務で空座町に来ていた。
一護の家に顔を出すわけにもいかないし、とは言え懐かしい顔を見かければ声をかけたくなるのが心情というもので、必然的にルキアは雨竜のところを訪れるようになっていた。


自分の十倍も生きている彼女は、自分の十倍、いやおそらくそれ以上の苦い思いと試練を重ねているのだろう。そのことを思う時、雨竜の眉間は自然と険しくなる。
ルキアが尸魂界に帰って以来、日々、考える。
あれから、どれくらい時間が経ったのだろう、と。
あれから、自分はどれだけ強くなれたのだろう、と。
実際に過ぎたのはほんの数週間で、そんなちっぽけな時間を重ねてもルキアの年月に追いつくはずはないのに、雨竜は日々、数えてしまう。
どれだけ近づけたのだろうか、と。




「―しだ、石田」
はっと我に返ると、目の前に心配そうに覗き込むルキアの顔があった。
「どうしたのだ?顔が赤いぞ」
「べ、別にっ…」
「やはり風邪でも引いたのではないか?」
ルキアの白い指先が額に触れようとして、雨竜はわずかに、身を引いた。
「ストーブに当たり過ぎただけだよ」
「・・・そうか」
何か言いたそうに手を引いたルキアは、再びストーブの前に指を戻した。電気を点けていない部屋に、再び静寂が戻る。
何か話したほうがいいのだろうか、と考えて、雨竜は暗い部屋の中に視線を漂わせた。けれども、冬の闇に吸い込まれるように、言葉は欠片も浮かんでは来ず、仕方なく視線を手元に戻す。
ふと左腕だけ短くなった死覇装の袖、その合間からのぞく白い肌が目に入り、雨竜は思わず目を逸らした。何を戸惑っているのだろう、と自問する。学校の女子のほうが、よほど露出が多いというのに。


「守りたい」と言えば、彼女は「自分の身は自分で守る」と言うだろう。
「一緒に戦う」と言えば、「学生の本分は勉強だろう」と言われかねない。
ならば、どうすれば、自分はこのひとの力になれるのだろうか。
そんな煩悶に気づくはずもなく、ルキアは優雅な仕草で膝を崩すと、ゆっくりと伸びをした。
「今夜は虚が出ぬと良いな」
「そうだね。そうすれば…」


―そうすれば?
言おうとした言葉をとっさに飲み込んで、雨竜は身体がかっと熱くなるのを感じた。


―そうすれば、こうしていられる。


「つくづく僕も馬鹿だな」
雨竜はうつむくと、自嘲気味に笑った。役に立ちたいのだと思っていた。力になりたい、そんな使命感のようなものだと思っていた。
けれどどんなに取り繕ってみせても、所詮は自分も、青臭いお子様なのだ。


「何を笑っているのだ?」
ルキアの声が、間近で聞こえる。
「もう、取り繕えないのかもしれない」
うつむいたまま、雨竜は観念するようにぼそりと呟いた。音になった言葉はそのまま自身の耳に響き、雨竜の胸に、じわじわと形を持ってせり上がってくるものがあった。
「・・・よく分からぬのだが」
「そうだろうね」
眼鏡を指で押し上げ、顔を向けると、不安げな表情のルキアと視線が合う。薄暗がりの中で、大きな瞳は無垢に雨竜を見上げていた。ストーブのわずかな風が、ルキアの頬の髪を揺らしている。その長い睫毛が瞬くのを眺めながら、雨竜は一つ、息を吐き出した。
「僕は、自分を止めることをやめるよ」
ルキアが微かに眉根を寄せるが、雨竜は気にならなかった。ルキアに伝えたのではない。自分に言い聞かせるために、言葉にしたのだ。


ただ認めたくなかっただけだ。抑制を失う自分を。ただ怖かっただけだ。心を捉われてしまうことが。
けれども認めてしまえば、落ちることとはとても清々しくて、このじりじりとざわつく胸の内まで、どこか愉快ですらある。
「教えてあげるよ。それとも、朽木さんが教えてくれるかい?僕よりずっと年上なんだろう?」
ようやく温まった指先を伸ばし、華奢な顎に添える。その素肌が思っていたより柔らかくて、雨竜は息を飲んだ。目の前の小さな身体は、雨竜を見つめたまま、予期せぬことに戸惑いを隠せずにいる。


―やっと、捕まえた。


雨竜の右指がするりと顎を離れ、ルキアの頬を包み込む。白い頬が、雨竜の右手にすっぽりと収まる。そのまま、もっと先へと勝手に動き出しそうな右手に焦りながら、かと言ってこれからどうしたらいいのか分からず、雨竜は視線を落とした。窓から入る街灯の光を薄く受けて、ルキアの肌は陶器のように白く、美しかった。その視線の先でルキアの小さな唇が、何かを言おうと薄く開く。巨大な塊となったざわつきが、咄嗟に雨竜を動かした。
「―ん、っ」
ルキアが言う前に、唇でふさぐ。
これまで雨竜が触れてきたもの、そのどんなものよりも柔らかく生々しい感触。その柔らかな温もりが、触れ合ったまま慄いているのが伝わる。急に申し訳なさがこみ上げ、雨竜は慌てて唇を離した。
「―あ、その…っ」
ぴんと空気が張り詰める。目の前で、ルキアの潤んだ瞳が揺らいでいた。ルキアの唇が、艶やかに光っている。それが口付けのせいだと気づいて、雨竜は体中が痺れる感覚に襲われた。
「…いし、だ」
掠れた声が、その唇から漏れる。
そのかさかさとした響きが雨竜の鼓膜をくすぐり、神経を震わせ、身体の奥を揺さぶる。雨竜は幼子に言い聞かせるように、小さく首を振った。
「そんな声を出されたら、なおさら止まらないよ」
左手をもう片頬に添え、再び唇を重ねる。行き場をなくしたルキアの両手が、すがるように制服の胸を掴む。その微かな力さえ衝動を煽るには十分で、雨竜は覆いかぶさるように、深くルキアを求めた。




どうして認めることができるだろう。
こんなに臆病になる自分を、こんな獰猛になる自分を。
冬のせいだ、と雨竜は思った。
外では、雪が降り始めていた。











文章目次


Copyright(c) 2016 酩酊の回廊 all rights reserved.