漂流者
―安息の場所など、ない。
ギンはさっさと書類仕事を終わらせると、目を丸くするイヅルを無視して、隊長室を出た。
「終ったで。ほな帰るわ」
隊務なんて、好きでやっているわけじゃない。虚討伐ならともかく、机の上の仕事なんて、退屈で退屈であほらしいことこの上ない。
それでも今日、ギンが数日分の書類仕事を終わらせてしまったのは、ギンなりの大切な理由がある。
決められた仕事はきちんと終わらせないと、愛しいあの子が、機嫌を悪くするからだ。
待ち合わせの場所に着いたのは、約束の時間より5分ほど前だった。
瀞霊廷のはずれの、人目を避けるようなその場所に、目当ての人は既に来ていた。
「もう来ててくれたんやねぇ、ルキアちゃん」
呼ばれたルキアは、硬く腕組みをしたまま、じろりと冷たい視線をよこす。
「…仕事は終わらせたのか?」
「もちろんや。で、ご褒美はないん?」
「何を言っておるのだ!仕事をするのは当たり前の―」
ルキアの小言が終わる前に、ギンはその小柄な体を抱え上げた。苦情を言われる前に、瞬歩で移動する。
今日は、新緑を見渡せる丘に連れて行く、と朝から決めていた。
どこであろうと、ただ彼女がいてくれれば、そこが安息。
―そう思うことは、容易かった。
それが、どうだ。
ギンは今、ひどく落ち着かない毎日を過ごしていた。
頑ななルキアが、ようやく二人きりで逢うことを許してくれ、しかも次の逢瀬の約束まで受け入れてくれたとき、ギンはふっと体の力が抜けるのが分かった。
ようやく、意固地な彼女との駆け引きが終わったのだ。これでルキアを自分のものできる―
けれども。
こうして人目を避けて、二人きりで過ごしていても。
無理矢理に唇を奪っても。
腕の中で、すやすやと寝息をたてる姿を見ていても。
ギンは落ち着くことができなかった。
例えば、何気ない会話に紛れ込む、他の死神の名前とか。
自分と出会う前に積み重ねられた、いくつもの思い出とか。
自分と離れている時に、ルキアに流れてゆく時間ですら。
ギンには、ことごとく不愉快で仕方ないのだ。
―なんやろうなぁ、コレは。
自分の心の中を、深く探ることは好きじゃない。だから、ギンは動く。
少しでも一緒に居られるように、不愉快なものからルキアを遠ざけるように、動く。
それでいて、やはり喉元を締め付けるような暗い感情に捉われるのだから、どうしようもない。
目の前に広がる黄緑色の世界に、ルキアが笑う。
小さな口から、微かな歌声がこぼれる。
眩しげに細めた瞳の、長いまつ毛に陽光がきらめく。
心待ちにしていた時間のはずなのに、ギンはやはり楽しむことができず、少し眉根を寄せるとルキアから目を逸らした。
梢がざわざわと風に揺られる音まで、自分をあざ笑っているかのようだ。
ルキアが手折った若葉が、風に煽られてくるくると回りながら飛んでいく。
それを目で追いながら、ああ、そうや、とギンはふっと嘆息した。
この子に出会って以来、どこに居ても、何をしていても、落ち着けた日などないのだ。
心、乱されたままで。
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