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蛙と狐と雨の歌





朝方から降り始めた雨は、昼を過ぎても止む気配はなかった。
柔らかな雨は町並みをしっとりと包み、薄く張った雲からはやんわりと日の光が透ける。そのためだろうか。街並は思ったよりも明るかった。
市丸ギンは人気のない裏路地を、傘を差して一人で歩いていた。濡れた石畳に、カラン、コロン、と下駄の音が響く。


視線の先には、道端にうずくまる小さな人影がある。うずくまってはいるが、どうやら顔を上げており、道端の生垣をじっと見ているようだ。遠くから見ても、真っ赤な傘と黒い死覇装は雨によく似合う。その裾から覗く白い足袋がすっかり雨に濡れているのを見て、ギンは少しだけ眉をしかめた。


ギンは早くからその姿に気づいていた。いやそもそも、その人物の霊圧がここにあることを知って、隊舎を出てきたのだ。
そっと下駄の音を消して傍らに立つと、声をかける。
「何してんの?ルキアちゃん」


声を掛けられた相手は、驚いたように顔を上げた。遠くの下駄の音にも気づかなかったのだろう。相手が隊長であることを知り立ち上がろうとするのを、ギンは片手で軽く制した。ルキアは仕方なく、しゃがみ込んだまま生垣に視線を戻す。
「蛙が、いるのです」
かすれた声に促されて見れば、生垣の紫陽花の葉の下に艶やかな青蛙が座っている。
「よぅ見つけたね」
「先程までしきりに鳴いていましたので…」
青蛙は二人の言葉が聞こえているのかいないのか、喉を膨らましながら黙然と宙を見つめている。紫陽花の大きな葉の合間までは、雨は落ちてこないらしい。




ギンは蛙のために足を止めたりはしない。
しかしこの娘は違うのだ。




この娘がギンのために足を止めることはない。
しかし―




しかし、この青蛙は違うのだ。






ぶくり、と体の奥底でどす黒い泡がはじける音がした。
誰にとも何にとも知らずふっと湧いた昏い思いは、滑りやすいギンの口を更に軽くする。




「しかし間抜けな顔やなぁ」
―ち、


「どんだけ土ん中で寝てたか知らんけど」
―ちがう、


「女見つけて子ぉ作るだけやのに」
―違うんや


「大層なことや」



―違うんや、ボクが言いたいんは







あの赤髪の刺青男だったら、冗談でも言って笑わせるのだろう
袖なしの副隊長さんだったら、歯の浮くような台詞の一つも吐くだろう
白髪の病弱な隊長さんなら、あたたかい言葉で和ますのだろう
あの甘草色の髪の人間だったら、力強くその手を握って走り出すんかな


それは知ってる
知ってるんやけど








「…失礼致します」
声に帯びた感情を隠そうともせずに、ルキアは立ち上がると深々と一礼して去った。決して目の前の隊長と視線を合わせようとはしない。小さな両手は、きつく握り締められている。
袴の裾に泥が跳ねる後姿を見送りながら、ギンは湧いた思いがゆっくりと沈んでいくのを感じていた。赤い傘が雨に霞み、辻を曲がって見えなくなる。霊圧を探れば、震える霊圧がどんどんと自分から遠ざかってゆくのが手に取るように分かった。
その淡い感触が遠く朽木家の屋敷に消えてしまうまで、ギンはひっそりと立ち尽くす。
雨が少し、ひどくなったようだ。








―なぜ言えないのだろう。






―ただ、君がいとしくて仕方ない、と。








「…なんでやろうなぁ」
ふと呟いたその言葉に答えるように、青蛙がゲゴ、と鳴いた。
ギンは驚いて片方の眉を上げると、足元の水溜りを見下ろして口の端だけで笑う。ルキアの霊圧が完全に去ってしまえば風情があると思えた雨も薄ら寒く、紺色の和傘を握っているのも面倒になる。雨粒に揺れる水面に映った自分の顔が一瞬泣いているように見えて、ギンは片足を踏み出すと水溜りを踏みにじった。


ゲゴ、と再び青蛙が鳴く。


誰かを呼んでいるのだろうか。
唄っているのだろうか。
泣いているのだろうか。




「お互い、綺麗な声では鳴けへんなぁ」




雨脚がひどくなる。
青蛙がいっせいに鳴き始める。
ギンが何か呟いたが、雨音に消されてもう聞こえはしない。






まるで花が散るように路面に傘が転がると、カランと下駄の音が響いて、ギンの姿は消えてしまった。








"泣かざなるまい 野に住む蛙 みずにあわずにいられよか"










梅雨入りしたので雨ネタを。


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