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うたかたの約束





―空っぽや。





向かいの建物の瓦が、臙脂色に染まっている。斜陽に照らされて辺りは一面茜色に染まり、柔らかく鈍い光で全てを包んでいた。
地上よりずっと高い位置にある隊長室は視界を遮るものがなく、一日の終わりを迎えようとする町並みと空がよく見渡せる。時がたつにつれて、街を歩く人の姿は減った。ぽつりぽつり、と松明に灯りが点り始めた。
日はもう沈んだのだろう。東の空には夜の気配が忍び寄る。




隊長室の前の廊下に足を投げ出し、街を見下ろすように座っていたギンは、同じように茜色に染まった足の指先をぼんやりと眺めていた。色を変えた世界はいつもなら嫌いではないが、今日は何の感慨も湧くことはなかった。
とはいっても、それは今日に限らずここ数日ずっとそうなのだが。



廊下を近づいてきた足音が、ギンの真横で止まった。溜息と共に、あきれた声が降ってくる。
「もう一日が終りますよ」
ギンがこうしていることが分かっていながら、おそらくこの副官は心配して見に来てくれたのだろう。ギンは入り口の柱に背を預けたまま、いつも渋面の副官を見上げることなく呟いた。
「…空っぽなんや」
「またですか…」
イヅルは再び溜息をつくと、投げ出された足を避けて隊長室に入り、机の上にどさりと書類を置いた。振り向いて、入り口のギンの背中に声をかける。
「明日、隊長印をお借りしますよ?」
期待はしていなかったが、返事はなかった。カァ、とどこかで間が抜けたように鴉が鳴く。イヅルは何度目かの溜息を漏らし、黙ったままのギンの元へ足を向けた。
「市丸隊長」
顔を覗き込んでも、ギンの細い目は茜色の虚空へと向けられたままだ。
「いつまでそうなさるおつもりです?」
「…どうしたらええのか分からへん」
「でももう四日目ですよ?」
聞こえているのかいないのか、ギンがゆらりと右腕を上げると町並みを指差した。
「街がある、空がある、人がおる、日が暮れる。―でも、ボクには何にもないんや。急に、何もなくなってしもた」





何もないとはどういうことなのか。
イヅルはその言葉の意味を測りかねて、口をつぐんだまま上司の横顔を見つめる。さらさらとした白銀の髪が、夕影を映して薄紅色に染まっていた。



ややあって、ギンがポツリと呟いた。
「なぁイヅル、どうしたらええ?」
「―想い続けることです」
副官の何気ない一言に、この時初めて、ギンは弾かれるように顔を上げた。イヅルが三番隊に来て数年が経つ。上司の顔などいくらでも見慣れたものだと思っていた。だが初めて見るその空ろな表情に、イヅルは思わず言葉をなくした。
これまで見てきたギンの顔は、張り付いたような笑顔の下に、いつも何かしらの思考の渦を感じさせるものだった。そしてその大半がろくでもない策略であることが分かるのは、数年後のことである。だが今目の前にしている上司の顔は、全ての感情も思考も削ぎ落とした、まるで魂魄の入る前の義骸のような顔だった。
「そしたら来てくれるんやろか」
「それは私には分かりかねます」
ギンは一瞬、何かを言おうとして口を開いたが再び視線を虚空に戻すと、小さく息をついた。








茜色の光の中、ギンは思い出す。
彼女が最後にここを訪れたのは、いつだったか―






病に伏せる隊長の代わりに書類を持ってきた彼女を、ギンは喜んで出迎えた。ふらりふらりと漂う生き方が性分のギンは、隊長室にいることがあまり好きではない。机に向かうことなんてもってのほかだ。だがその日、何の気まぐれかたまたま隊長室にいたギンは(といっても仕事をしていたわけではないのだが)、たまには隊長らしいこともしてみるものだ、としみじみ納得した。





それは四日前の午後のことだった。





「失礼します、十三番隊朽木ルキアです」
「ルキアちゃん!」
がたりと派手な音を立てて立ち上がったギンを、ルキアは入り口の床に正座したまま驚いた表情で見上げた。
「これは市丸隊長。珍しいですね、隊長室にいらっしゃるなんて」
「当然やないの、ここはボクの部屋やし」
つかつかとルキアに歩み寄るギンを、傍らの机で書類に向かっていたイヅルがじろりと睨んだ。
「せっかくやし、お茶でもして行かん?」
「申し訳ないのですが、まだ回らなければいけない所が…」
ルキアは軽く首を傾げると、困った表情で微笑んだ。
「残念やねぇ」
ギンはルキアの目線にしゃがみこみ、盛大に溜息をついた。その様子を見て、ルキアは再び苦笑する。
「目を通していただく書類はまだありますので、またお邪魔することもあるかと」
「ほな、またおいで」
「ええ、また。市丸隊長」
イヅルが書類を手渡すとルキアは床に両手を揃えて丁重に頭を下げ、軽やかに立ち上がった。その動きで僅かに起こった風が、ギンの髪を揺らす。ルキアはふと、未だ見つめたままの男の視線に気付くと、ひょこりと頭を下げて踵を返した。長い廊下を去って行く小さな後姿を、ギンはしゃがみ込んだままいつまでも眺めていた。




それからしばらくの間、ギンは隊長室にいることが増えた。不思議なこともあるもんだ、と隊員たちは噂しあったが、気の利く副隊長は「仕事がはかどって助かります」と微笑むだけで、誰にもその理由を漏らしはしなかった。
そうして四日が経つ。






床に胡坐をかいて座りこんだまま、ギンはゆっくりと記憶を辿ってゆく。
一つ一つ、はっきりと思い出すことができる。






困ったように顰めた眉。
光を映す漆黒の髪。
揺らぎ、瞬く灰紫の瞳。
象牙のような白い肌。
細く華奢な首筋。
書類に添えられた小さな手。
桜貝と同じ色をした爪。
影を落とす長い睫毛。
死覇装の袴の折り目。
真っ白な足袋の皺。






あの時、確かに彼女はここにいたのだ。あんなに華やいで感じたこの部屋が、今になってみるとあまりにもがらんどうで、なんて空しいのだろう。





「空っぽや…」
呟いた言葉は、誰に拾われることもなく、何の色も持たないまま虚空に散っていく。そのぼんやりとした響きが、ギンにさらに追い討ちをかける。
「―どうしてこないなことに…」









来る日も来る日も、ギンはルキアを待った。
隊長室の床に胡坐をかき、椅子にもたれ、机に突っ伏し、時に寝転び、さくさくと仕事をこなす副隊長に邪魔にされながらも、待ち続けた。
どれくらい日が経ったのか、もう分からなくなっていた。






だがいくら待っても、彼女が此処に来るはずはない。
ルキアが現世へ派遣されたのは数日前のこと。派遣期間の終わる1ヶ月後まで、彼女がここに姿を現すことはない。
それを知っていても、ギンは待ち続ける。









彼女は、必ずここへ来ると言ったのだ。
その約束が果たされる日まで、ギンは一人、待ち続ける。
朝日が射し、昼の陽炎が浮かび、夕立が訪れ、そして何度茜色の空に包まれようとも。






「空っぽや…何にもない。なぁんにも…」











空の心を抱えたまま。













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