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Murder in his eyes





生きたまま肉を腐らせる薬。
神経に宿る寄生魂。
首を切り裂くための鋭いメス。
この世を地獄に陥れる毒の霧。




薄暗い実験室はしんと静まりかえり、試験管の触れる音だけがまるで儀式のように厳かに響く。ずらりと並んだ大きな硝子の容器は透明の液体で満ち、異形の蟲や人体の一部が眠ったように沈められ、時折思い出したように痙攣しては水中を掻き乱した。
静かな狂気をまとった男はそのただ中に佇み、青白い蛍光灯に照らされながらくっくっと満足げに笑った。
「待っていろよ―」
試験管を高く灯りにかざすと、中でどす黒い液体が鈍く揺れる。



「お前の弔いだ、朽木―」






数時間前―
阿近ら技術開発局の局員は、電波計測室に集まっていた。局長マユリをはじめ、複数の死神たちが藍染を止めるために虚圏に派遣されて1日が経つ。
虚圏に向かった死神たちは、情報伝達のための通信機を持たされた。局員たちは、電波計測室のずらりと並んだモニターの前で、虚圏からの通信をじりじりと待っていたのだ。



まず、卯の花隊長の報告が入った。負傷者が多いようだ、という言葉に緊張が走る。虚圏の様子、破面の数はすぐに山本総隊長へと伝達された。
次に、マユリについていたネム。局員たちはマユリの尋常ならざる探究心と執着と、その成果である肉体改造を充分に知っている。したがってその場にいる者は誰も、自らの上司の安否を案じてはいない。



ザザ、と砂をこするような音がして最後の報告者の声が届いた。



『こ、こちら山田花太郎です』



腕組みをして立っていた阿近はすかさずリンの通信機を奪うと、冷たい声で言い放った。
「お前のことはどうでもいい。様子は?」
『破面がいるので近づくことができません…朽木さんが倒れています』
そして次の花太郎の一言に、電波計測室の面々は凍りついた。




『じゅ、重傷を負っています…生死不明』




阿近の声が、低く響く。
「―朽木隊長は何をしている」
『破面と闘っています、が…』
「おい、どうし―」
『ううぁああああああっ!!』




叫び声とともにブツリと通信の途切れる音がしたかと思うと、それきり花太郎からの通信は途絶えた。



10分、20分―
他の連中からの連絡は入っても、花太郎からの連絡は入ってこなかった。
例えばやちるの連絡はすこぶる能天気なもので、
『イッチー倒れてるー!でねでね、強そうな人がいてね、剣ちゃんとっても嬉しそうなのー♪』
うんざりするほどの明るい声が電波計測室に響く。



だが花太郎からの連絡はなかった。
奴もまた重傷を負ったか、あるいは殺されたか―



虚圏は現世と尸魂界の間にある空間だ。本来は死神が立ち入る空間ではなく、虚圏側からの通信がなければ、阿近たちに虚圏の状況を知る手段はない。 電波計測室には次第に絶望的な空気が漂い始めた。
どれくらい重苦しい沈黙が続いただろうか。



突然緊張を打ち破り、ガシャン、と派手な音が響くと分厚いガラス片が辺りに飛び散った。
阿近の投げた通信機がモニターの一つにめり込んでいる。椅子の蟲が怯えるようにギギッと鳴いた。
「なぜだっ!!」
モニターの前で、いつもは冷静な阿近が両拳を握り締めて立っていた。
「なぜだ…なぜお前だけが…っ!」
誰のこと、とは皆問わない。技術開発局の誰もが“お前”の指す人物を知っているのだ。
「阿近さん…」
誰も何も言うことができなかった。
一部の心ある局員から同情の空気が流れようとしたその時、阿近はそれを振り切るようにくるりと踵を返すと、有無を言わさぬ勢いで出口へと向かいだした。
「阿近さん!!」
その声が終わる前に、阿近の姿は戸口から見えなくなっている。
『ずったずたー♪ずったずたにしちゃえー』
入れ替わるように、やちるの底抜けに明るい声が空しく響いた。









どこをどう歩いたのか覚えていない。
気がつくと、阿近は自室に戻っていた。部屋の主の気配を感じて、ガラス瓶の中で発光虫たちがもぞもぞと動き始める。虫の発するぼんやりとした青い明かりが部屋を照らした。



はじめ、ルキアはこの虫たちを怖がった。
親指の2倍ほどもある芋虫が光ることが、ひどく不気味に思えたのだろう。しかし阿近が自身の手のひらに乗せ、なぜこの虫が光るのか、その意味と仕組みを説明しているうちに、怖さは幾分和らいだらしい。ルキアはそっと近づくと、間近で見つめてぽつりと呟いた。
「この者たちも、生きるために懸命なのだな」
以来、ルキアはこの虫が気に入ったようだった。
時折部屋の灯りを消すようにせがみ、真っ暗になった部屋で飽くことなく見入っていた。
そして阿近は、そのルキアの姿に飽くことなく見入った。




鈍い光に照らされた部屋の中は、馬鹿げていると分かりながらも、今ここにいない人物を思い出させる。
魂魄の消える様はこれまでにいくつも見てきた。義魂研究と義骸技術のために、仔細にわたる観察を重ねてきた。
たかが霊子の崩壊現象。元々不安定に固まっていたものが、再び霊子へと霧散するだけに過ぎない。何百年か後に自身の体が霧のように消え果ることも、阿近は極めてありふれた自然現象として考えることができる。だが―



―何故こうも揺らぐ?



捨てられた傀儡のようにがくりと膝を付いた阿近は、血の滲んだ拳で埃のたまる床を叩いた。




「逝くな朽木…っ」




鵺も鳴かぬ漆黒の闇の片隅に、哀しい咆哮が一つ、こだまする。









しかし少し時間が経ち、再び自室から現れた阿近の表情は一変していた。
細い目をぎらりと光らせ、幽鬼のような顔に薄い笑いを浮かべている。そして確かな足取りで実験室へ向かうと、膨大な薬品と器具の中から冷静な手つきで幾つかの器具と薬品を取り出しそのまま鍵をかけて実験室へ篭った。
そして、美しいとも言えるような流れる手さばきで、おぞましい毒薬や道具を作り始めたのだ。





愛も狂気も阿近にとって大きな違いはない。
砕け散った想いを掻き集めたら、ただ鋭い刃になっただけのこと。そこに込める情火は微塵も変わらない。
いやむしろ、身を焦がすほどに強くなったと言える。




恐ろしや 恐ろしや
三千世界の鴉を殺め
冥府の井戸を見下ろしながら
むくつけき鬼は唄う如くに囁く
切り裂け 苦しめ 慄き給へ
呪詛は愛
憎悪は誓い
怨嗟は祈り
あはれ奈落の焦熱に身を投げ捨つるは淋しき鬼よ
さても逢へぬ苦しみに絶へて及ばずとや







鋭い光を放つメスを取り上げ、玩具のように弄びながら、鬼は陶然と語りかける。
「お前の弔いだ、朽木。一人一人に復讐をしてやる」
既にその頭脳には、全ての方法と過程とが整然と並べられている。先代局長に幼いながらも見出された頭脳だ、もちろんその計画には少しの齟齬もなければ容赦などという誤差もない。
「まずはお前を傷つけた破面だ。次にお前を巻き込んだ人間ども」
そもそもの破綻の元凶を忘れはしない。元々あいつらは気に入らなかった、と付け加えるのを阿近は忘れなかった。
「お前を救えなかった朽木隊長も同じ苦しみを味わってもらう」
絶望は時とともに肥大し、刃を向ける相手は募る想いとともに増す。
「そして無能な尸魂界を」
腐臭漂う阿鼻叫喚の地獄は、狂った鬼の心をこの上なく慰めるだろう。
助けを求める叫び声は鬼の耳を楽しますだろう。
流れる血のぬくもりは、鬼の哀しみを癒すだろう。
「最後に―」




絶望の世に神などいない。
もとより、阿近が信じるのはただ一人の存在のみ。
愛しい愛しいただ一人がいないならば、
このつまらない世界など存在する意味はない。






「この世界を―」








忘れはしない。
許すなど論外だ。








お前が其処にいると言うのなら
常闇に此の身を投げ入れて
餓鬼の如く彷徨い歩く
血の泥濘をとこしえに
あばらの浮き出た虚しい総身に
修羅の火を冷たく燃やして






「くくくく…はははははは!!!!!」









さぁ、凍える魂に救済と復讐を。














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