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こぼれる体温





その日、ルキアは珍しく無言のまま阿近の部屋に入ると、口を噤んだまま長椅子に腰を下ろした。 何も言わず、硬い表情で中空を見つめている。阿近はその様子をじっと見つめてしばらく考えていたが、“やはりいつもとは様子が違う”という結論に至り、尋ねた。
「どうした」
「どうもしない」
「泣きそうな顔をしている」
「そんなはずはない」



即座に返されたルキアの不機嫌そうな返事に、阿近は眉間の皴を深くした。
「俺に判らんとでも思っているのか。お前の存在を誰よりも知り愛していると俺は自負する。その俺に判らんとでも思っているのか。お前がそんな目をしているときは」
と言いかけて、阿近の動きが止まった。



しまった、とルキアが思ったときにはもう遅かった。青白い顔の鬼は眉間に皴を寄せたまま、つかつかと歩み寄ると、ルキアの頬に躊躇なく手を伸ばした。髪の影に隠れて見えにくいが、ルキアの頬には真っ白な綿布が当てられている。
「昨日の討伐の怪我だ。大した怪我ではない、かすり傷だ」
そう言って払おうとしたが、逆に手首をしっかりと握られるはめになった。
「放せ、触るな」
「断る」
「触るな…」
細い手首を押さえつけたまま、もう一方の手でルキアの顔に触れる。神経質な指先は確かめるように、顎、耳、鼻、とゆっくり輪郭をたどる。







ゆっくりと大切に触れられているのに、阿近の指先からは静かに怒気が伝わってきた。冷たい指先が触れたところは石になってしまうような気がして、ルキアは目を閉じた。体温の低い指先は観察するように、どんなに些細なかすり傷も見逃さず、一つ一つ傷跡をなぞってゆく。



「阿近」
「…」
「何を怒っているのだ」



節だった指先の動きが、頬の傷のところで止まる。答えは早かった。





「自分を傷つけることを躊躇わないお前に怒っている」





「生き物の顔には目がついている。目は全ての情報源だ、危険を真っ先に見つけ、避けようとする器官だ。故に顔は、生き物でも最も傷つけにくい場所となる。よほど捨て身にならない限りは、顔に傷なんぞつくはずがない」








なぜ、なぜこうも自らを傷つけることができるのか、と阿近は心底不思議に思う。先だっての討伐でも、腕を怪我して戻ってきた。これだけの美しさを持っていながら、ルキアには自身を守ることへの執着が全くない。むしろ進んでその身を危険にさらしているのではないか、とすら思える。








「自分を傷つけるな」



瞳を閉じた暗闇の中、ぞんざいに放たれた言葉はルキアに重く響いた。
今回の討伐で怪我をしたことについて、決して好意的ではない言い方をする者もいたし、あからさまな陰口もあった。阿近の言葉は、それが自身の容姿に対する執着からくる言葉であっても、嬉しかった。
「っ…」
ぼろぼろと涙がこぼれた。そしてこぼれだした滴はもう止めようがなく、あとからあとから溢れては柔らかな頬を濡らした。
「勿体ない」
憎憎しげな呟きが間近で聞こえたかと思うと、温かいものが目じりに触れる。



勿体ない、という言葉に偽りはない。阿近にとってその涙の意味よりも、この雫がルキアの体の中から生まれ出たものである、ということが意味をもつ。こんなに美しく清らかなものを、みすみす地に落としてなるものか。目尻を舌でゆっくりとなぞり、その涙もまた温かいことを知って歓喜する。








ルキアがようやく瞼を開けると、目の前に阿近の顔があった。涙はまだ止まらない。阿近の言葉を否定した先ほどのやり取りが、ひどく恥ずかしく思えた。非難されているわけでもないのに、目を合わすことができない。顎を押さえられたまま、視線だけをふいと伏せる。
「違う、これは」
唇の先で、ぼそぼそと呟く。
「貴様が泣かせたのだ」






言い訳じみている、と頭の隅で思う。きっと鼻で笑われるのだろうと覚悟したが、返ってきた声はこれまで聞いたことがないほど穏やかだった。
「そうだな、俺が泣かせたんだ」
瞼に、ゆっくりと口付けを落とす。泣きはらした瞼は熱をもち、官能的な温かさを阿近の唇に伝える。








「だから俺を憎め。お前が傷つけるのは俺だけでいい」












零れ落ちるのは君の想いか
俺の痛みか





交わす体温に
僕らはゆっくり溶かされていく














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