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眠り姫





休ませてくれ、と言ってルキアがやって来たのは何刻ほど前だったか



狂人の前に時間は止まり ただ飽かず眺める
その奇跡の存在を






研究室の無機質な長椅子の上
心地よく安らかに繰り返される寝息
あぁ愛しい そして憎い
なぜにこうも安らかなのか
見つめる狂人は こんなにも息苦しいというのに






壊れ物のようにそっと手を取り
狂人には小さすぎる指に口付けを落とす
狂人の血は冷たい
薄い唇に触れた熱は 渇きを呼び起こす





象牙細工のような耳に触れる
その冷たさに安堵する
漆黒の髪に鼻を寄せる
仄かな甘い香りに 叫びたくなる衝動を抑える
柔らかな頬に己の頬を寄せる
うぶげの触れる感触に体中が総毛立つ






そしてゆっくりと瞼をなぞる
嗚呼この奥に あの紫紺の瞳があるのだ
愛し欲して止まない あの美しい瞳が 
狂人の世界の中心が







ルキアが身じろぎをする
淡い睫毛がゆるゆると開く
もどかしいくらい
ゆっくりと




紫紺の瞳は揺らぐ
とろける焦点のまま そこにいるべき人を探す






狂人は動かない 否、動けない
息を呑み 呆けたように見つめ待ち望む ただその瞬間を






やがて像は結ばれる
潤んだ視線が狂人を捉え 微笑む
狂人の息は止まる






薄紅色の唇が開かれる
小さな歯の初々しさに目を奪われる






そして
待ち望んだただ一つの言葉が紡がれる











甘美のいかづち
痛哭の真綿
忘我の鎖
陶酔の波濤






その一言で 俺は
堕ちることも飛ぶこともできるのだ






ただその一言で


















「あこん」




















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