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それぞれの領分





机の側の器具を取ろうと手を伸ばした阿近は、目の端に入ったルキアの様子に、たちまち不機嫌になった。急いで片付けなければならない検査があったとはいえ、やはりルキアを放っておくのは間違いだった。いつもなら傍でつぶさに観察しているものの、今日に限って机に向かっており、ルキアが全く視界に入らなかったのだ。ほんの少しでも目を離した自分に、どうしようもなく腹が立つ。 くるりと椅子を向ける。
「おい」
ルキアが視線を上げる。
「勝手に感傷に浸るな」
ルキアはと言えば、阿近の部屋にしつらえられた長椅子に膝を抱えて座り込み、つらつらと終わるともない考えを巡らせていたのだった。む、と形の良い眉をしかめる。
「そんなことにまでいちいち貴様の許可が必要なのか」
その問いには答えず、書物の山を器用に避けながら歩み寄ると、ルキアの足元に屈む。
この高さからはほんの少し、ルキアの顔を見上げる形になる。阿近はこの角度から眺めるルキアの顔が、最も美しいだろうと考えていた。瞬く瞼、繊細な睫毛、光を反射する水晶のような眼球、形の良い骨格、見下ろされる視線に全身が震える。

あぁやはり、このまま抱え上げて冷凍保存室に運ぶか?
いや、それでは美しい皮膚の色が濁る。
じゃあ昨日届いた、新しい飼育箱はどうだ?あれなら大きさもちょうどいい、飼うには最適だろう。まずこの部屋を片付けて…それよりも地下倉庫か?いやあそこは局長に見つかる可能性がある―

「思いに沈むお前は美しい」
渦巻く思考をさとられぬよう、そっと頬に触れる。
「大事な瞬間を見逃した」
何を勝手な、と言い捨てたいところだが、今のルキアにそんな気力はない。再び足元に視線を落とすと、ふぅ、とため息をつく。
「貴様はいいな。」
「何がだ」
「余計なことは考えず、好きなことだけして生きているのだろう?」
柔らかな髪に、節だった指を絡める。
「そうでもないぞ。反吐を吐くような醜い遺体を解剖しなきゃならんこともある。さして意味があるとも思えん機械を作ることもある。上からの命令でな」
結局どちらも阿近の領域だろう、とルキアは思ったが言い返すことは止めた。
ひるがえって見れば、ルキアがいま思い悩んでいることも、他人からすれば至極些細などうでもいいことかもしれなかった。


再び物思いに沈んだルキアの顔を眺めながら、するりと隣に座る。いつもなら警戒の目で牽制されるのだが、今日のルキアにわが身を守る余裕はない。それは先ほど、頬と髪に触れた時に確認済みだ。
―過程は慎重に、成果は確実に。研究の基本だな。
思わず、口の端がにやりと歪んだ。

「気にするなと言ったところで、お前は気にし続けるだろう?だったら、気にしても倒れずに済むよう、強くなるしかない」
ルキアが、きり、と視線を上げる。
「正論だ」
「当たり前だ。俺を誰だと思っている」
「だけど…」
「?」
「だけど、なんか嫌だぞ!」
口を尖らせて、ぷく、とふくれる。
「…なんだそりゃ」

正しい答え以外に、何が真実と言えるのだと阿近は考える。客観的な真実こそが全てであり、そこに好き嫌いの感情が入る余地などあるはずもない。しかしルキアはぶらぶらと足を揺らしながら、私が言いたいのはそんなことではないのだ、とぶつぶつ呟く。阿近にとって大事なのは、ルキアの中にまだ自分が理解し得ない部分があることを確認した、という事実だ。
瞳を覗き込むようにして、ついと顔を近づける。


ほら、今日の君はなんて無防備だ。


ルキアがようやく我を取り戻したのは、阿近がその可愛らしい唇を啄ばみ、呟きがふさがれた後だった。



シンプルな人と複雑な人の会話は、噛み合わないようで意外にウマが合ったりするんですよね…

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