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伝説のひと





技術開発局の書庫でその名前を見つけた時の衝撃は計り知れない。
黴臭い書庫には、膨大な数の本が収めてある。新薬を開発中の阿近は古い書物にヒントを探しに来たのだが、砂漠で輝石を見つけるような僥倖に、そもそもの目的は完全に吹き飛んだ。
震える手でページをめくり、穴のあくほど読んだ後、結局その本を手放すことができずに自室へ持ち帰った。
身に馴染んだ椅子に腰を下ろし、机の上に古びた本を広げる。
たかだか数ページに過ぎない記述だが、阿近にとってその内容は、この世を動かす理よりも大きな意味を持った。何度も何度も繰り返し読む。博覧強記で知られる阿近だが、既に諳んじている自信はあった。

それは、現世の風俗に関する本だった。
現世で信仰されている宗教に、古くから伝わる伝説が記されていた。


その名を“聖ルキア伝説”と言う。


伝説の内容はこうだ。
現世のある地方に住んでいたルキアという女性は、己の信心に生涯を捧げようと考えていた。
しかしルキアの美しさ、特にその瞳の美しさに心を奪われた多くの男たちが、執拗に婚約を迫ってくる。
彼女の信奉する宗教では、婚姻は認められていない。
そこで彼女は信心を貫くために、元凶とも言えるその目をくり抜いて求婚者に送りつけた、と―。

また彼女の宗教は迫害を受けていた。しかし彼女は己の道を曲げることを拒み、最期には想像しうる限りのあらゆる残虐な拷問を受けた。しかしその佇まいは常に毅然とし、静かで、光に輝いていたのだ、と―。


阿近は椅子に身を委ねて目を閉じ、ルキアの瞳を思い出す。
くるくるとよく動く水晶の球体。飽きることない色彩の変化。どれだけ観察しても、いや観察を重ねれば重ねるほど、不可思議さが増していく。

誰が付けたかは知る由もないが、これ以上ふさわしい名はないだろう。


えぐり出そうとしたことは数知れない。
しかし、生きて動いているからこその美しさがあることも、また事実だった。
一方で、例えその両眼を失くしたとしても、ルキアの美しさは変わらないだろうとも考える。
抑えがたい所有欲と、美に対する敬服と。
そうして二つの相反する欲望に挟まれながら、己の欲求に忠実な阿近にしては珍しく、今日までじりじりと過ごしてきたのだった。

眼球を送られた求婚者は、その後どうなっただろうか。
「俺なら―」
とその時、ぎしりと鈍い音を立てて部屋の扉が開いた。
「阿近、入るぞ」
主の許可なく入ってきたその姿を、阿近はうっとりと眺める。その姿が何か考え事をしているように見えたのか、ルキアが机の上の本に興味を示し、ついと近づく。
「何を読んでいるのだ?」
すかさずその腕を掴んで自分の方に向き直らせると、細い顎に手をかけた。
「…何の真似だ」
顎に食い込む指をものともせず、鋭い眼光が向けられる。


「俺はお前の眼球を心から愛する。だからこそお前が欲しい。
 だが、お前は決して俺のものにはなれない信念があるとする。
 その時、お前はどうする?」


ルキアは大きな眼を思慮深く瞬き、やや考えた。
そして不敵な笑いと共に返された答えに、阿近は倒錯に近い満足を覚える。どくりと体中が沸き上がる。


「その時はこの両目をえぐり出し、瑠璃の器に綺麗に載せて、貴様の元へ送ってやるさ、阿近」


嗚呼その時を
夢想しながら生きるのも悪くはない



聖ルキア(ルチア)伝説はキリスト教に実在のものです。ルキアスキーの間では有名ですね。
歌で有名なサンタ・ルチアは彼女の名前に由来するらしい。宗教学、受けとけば良かったな…

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